自殺について

先日の毎日新聞に載った特集記事。


韓国:トップ女優の自殺、ネット規制強化へ サイバー侮辱罪導入し処罰も−−政府

http://mainichi.jp/select/world/news/20081027ddm012030036000c.html


最後に、甲南大の教授のコメントが載ってるのだが、次のような部分があった。

韓国社会ではしばしば強烈なアピールとして自殺が行われることがある。例えば、今年6月に米国産牛肉の輸入制限解除に抗議する集会に参加していた男性が焼身自殺を図って大やけどをした。女優に抗議の意識があったのかはわからないが、彼女の自殺を強い抗議や怒りだったと受け止めた韓国の人は多かったのではないか。自殺をめぐる国民性の違いも考える必要があると思う。


これを読んで、ちょっと考えた。
今回の出来事が、こうしたアピールの要素が強いものかどうかは分からない。
また、韓国にそういう国民性があると言えるのかどうかも、分からない。
だが、世界を見渡してみると、抗議や怒りの表明、そういう多くの人への働きかけの方法として、自ら死を選ぶという行為は、多く見られるものだろう。
たとえば、ベトナム戦争の頃、あれは戦争に抗議したのか、アメリカや南ベトナム政府に抗議したのか、よく知らないが、焼身自殺をするベトナムの僧侶が多く居た。
そうした行動は、たしかに自殺と呼ばれるだろうが、単純に「死を選んでいる」と言ってよいのだろうか。


まず、他人が自殺することを、ぼくには肯定も否定も出来ない。
それは、その人が追い込まれた結果として、死を選んでいる、というより、自分としての選択が出来ない状態にまで追い込まれた結果として、突然に自らの命を絶ってしまう、ということがありうるからである。
その場合、それはその人の自由な選択ということではないのだから、肯定も否定もしようがない。


ただ、他人や世界に働きかけようとする目的があり、そのために自分の死という手段を用いるという場合。
これも、そこまで追い込まれた結果として、そうなっている、そうさせられていると言うことも出来よう。
だが、それだけだろうか?


たとえば、自爆攻撃が非難されるのは、それが他人を殺傷する行為だからか、それとも自殺であるからか?
自殺として見るなら、それはそれしか方法がないところまで追い込まれた人の行為としてみることが出来る。
そして、そういう状況にまでその人を追い込んだもの、アメリカとか世界経済とか、「テロリストの組織」とか、この社会を作っているわれわれ自身とか、そういったものを批判することこそ重要、ということになろう。
この場合には、ほぼここまでで話が終わるかもしれない。


だが、僧侶たちの抗議の自殺のようなケースを考えてみよう。
たしかに、抗議の自殺をしなくても、他に効果的な働きかけの方法があれば、その人は生き続けてそうしたはずである。
だから何と言っても、構造なり環境なり、社会なりが、もしくは宗教や文化なりが、その人を死に追いやった、ということではある。
だが、同時に、生の一部として、その人は自殺という行為を選んで行った、という部分は残るのではないか?
つまり、この行為は、その人の自由に属する、と言える部分があるのではないか?


つまり言いたいことは、全ての自殺をひとくくりにして考えるわけにはいかない、ということである。
自殺する全ての人が、死に追いやられて死を選ぶと、言い切れるわけではない。
たしかに、どんな自殺も、その背景に、「追いやられている」部分が、まったくないとは言えないだろう。自ら命を絶つということは、自然なことではないように思う。
だがその一方で、自ら命を絶つという行為が、自由や生の内にある、という場合、その要素を含む場合はある気がする。


どうも、そういうことを、これまであまり考えてこなかった。
今の日本の社会では、「自ら死を選ぶ」ことを容認したり何となく称揚する空気が強い気がするので、そのことが目に入らなかったのかも知れない。
しかし、そういう空気に対抗するためにも、自由や生の一部としての自殺(という行為)がありうるのかもしれないことは、押さえておいた方がいいのではないか。


いや、それよりもこういう言い方をするべきかもしれない。
一般に、人が追い込まれて自ら死を選んだように、あるいは選ばされたように、もしくは選ぶ余地もなく自死へと追い込まれたように思える場合でも、その行為には、幾分かの自由が含まれていた、と考えうる。あるいは、考えるべきである。少なくとも、考えてよい。
その人の生の最後の瞬間である、死の瞬間においてもなお、その人の生の力と自由が、死へと追い込んでくる力を凌駕していた部分があったはずだ、と。


これはしかし、あくまで死んだ人に対する、生き残った者の思想(対し方)の問題であるのかもしれない。