『東京大空襲』

再放送で、NHKスペシャル『そして下町は消滅した・東京大空襲・60年目の真実』を見た。
想像していた以上に、重い内容であり、すぐれた番組だったとおもう。


東京大空襲は、1945年の3月10日に起こり、約10万人の市民が犠牲になった。今年は、それから60年である。
もちろん、ここでも体験者の高齢化がすすんでいる。
80歳、90歳に達した体験者の方たちのなかには、これまで沈黙を続けてきたが、アフガン、イラクでの戦火や有事法制の制定など、当時の再現を思わせる状況のなかで、ここに来てはじめて証言をはじめた方も少なくないと聞く。「いまなぜ」ということよりも先に、なぜこれまで語られてこなかったのか。その理由の一端に、触れることのできる番組だった。
空襲の体験の中で背負ってしまったものが、言葉にするにはあまりにも重かったのだ。


多くの人たちは、肉親や無数の他の人々と、紙一重のところで死を免れ、そのほかの人たちの死を目の当たりにしながら生き延びた。
そればかりでなく、あたかも自分が生きるための身代わりとなって、肉親や他の人たちが死んでいったと考えざるをえない状況のなかで、生き延びたのである。
ある証言者は、熱風に煽られた火炎が作り出す一面の「火の海」から逃れるため、水の中に飛び込んだが、溺れず生き残るためには近くにいる人たちを押しのけるようにして場所を確保するほかはなかった。そのなかで、自分の肉親がすぐそばで死んでいたことを、後になって知る。もしかして自分が押しのけたために死んだのではないか、つまり自分が殺したのではないかという疑いを、消し去ることも、肉親や他の人々に打ち明けることもできないまま、一人で抱えて生きてきたのだ。毎晩、ひとり苦しみ続けたと語る、この90歳の老人の涙を、カメラは映し出す。
また、別の証言者の女性は、やはり猛火と焼夷弾の雨を逃れるため、おさなごを背中に負って、夫と二人、早春の夜の水温、1、2度という川の水の中に浸かった。体が冷え切り、そのままでは死んでしまうことが確実だったので、人々が鈴なりになってその上に乗っていた川面に浮かんだ大八車の上に引き上げてもらう。しかし、一人乗るともう夫の乗れる余地はなかった。水に浸かったまま、何も言わず立ち尽くしている夫の姿を見たのが、見納めだった。冷え切った体のために猛烈な睡魔に襲われていた女性は、そのままひざをついた状態で眠り込んでしまう。気がつくと、全身がびっしょり濡れていて、背中の赤ん坊は凍え死んでいた。少したって、自分が生き残れたのは、赤ん坊を負ぶっていたおかげで背中が濡れなかったからだということに気がついた。
この女性は、子どもは自分の身代わりに死んだという思いを打ち消しきれず、その後の60年間を生きてきた。戦後は長らく、戦災孤児を助け育てる事業に携わってこられたという。
また、看護婦であったある女性は、自身も患者たちを守って猛火のなかを逃げる体験をしたのだが、特に重病の患者たちと共に火の手の迫った病院を出発したまま、二度と帰ってこなかった若い同僚たちの姿を思い出すたび、自分はあの人たちが生きるはずだった人生の万分の一もよく生きられなかったのではないか、という自問を繰り返すのだと語る。あの人たちは死に、自分は生き残ったが、そういうふうになる理由が果たしてあったのか。
それを問い続けざるをえない人生を、この女性も背負ったのだ。


おそらく空襲を生き延びた多くの人たちが、自分の身代わりででもあるかのような、こういう肉親や無数の他の人たちの死を背負って、その後の人生を生きることになったのだろう。それは思い出し、あるいは言葉にするには、あまりにも重い出来事だったのだと思う。


戦後西ドイツでは、米英など連合軍による無差別爆撃の記憶は、語られることがタブーのようになっていたという。これはもちろん、戦後の政治体制(アメリカとの同盟関係)に起因するところが大きく、その体験がようやく公に語られるようになったのは、東西統一後のことであるという。朝鮮戦争後の韓国にも、同じような状況があった。
日本の、米軍による惨禍の証言の少なさにも同様の事情があったと考えるべきか、断定できる材料はぼくにはない。
ただ、壮絶な体験をした人たちに沈黙を選ばせる、有形無形の圧迫が、戦後のこの社会に「空気」のように存在してきたのではないかと、ぼくは思う。
たしかに、これらの体験は言葉にするにはあまりに重すぎる。だが、沈黙を選んだことによって、その重さが本当に軽減されることになったのか、誰にも分からない。むしろ、沈黙というもうひとつの重荷が、多くの人たちにのしかかったのではなかったか。
東京という町は、いや東京だけではないが、この沈黙の上に今も浮かんでいるのだと思う。


しかも日本の場合、ドイツとは異なり、戦前の支配層が戦後も権力を維持したという事情があることを、忘れてはなるまい。


ぼくはこのブログで、これまで何度か、あの戦争は国家が起こしたというだけではなく、国民がそれを支持したのであり、日本国民には戦争の惨禍に対する責任があると書いてきた。いまもそのかんがえは正しいとおもうが、そのことは、上に書いたような戦災の体験者たちが、戦争という国家的・政治的な暴力の犠牲者である事実を、否定するものではない。
戦争というものは、国家の論理を全面化させるものだ。戦争という巨大な暴力において、国家の被害者でない人間はいないと思う*1
だからこそ、国民は国家に戦争を引き起こさせてはならないのだ。


空襲に関して言えば、無差別爆撃を行ったアメリカという国家は無論のこと、日本の国家もまた、国民たちに、被災地から逃げず消火作業に努めることを義務づけていた。国民の生命の安全を守れぬ己の無力を、家を焼かれて逃げ惑う人々の「自己責任」へと転化したのである。


また、こうした人々の体験の証言にふれるとき、他人の責任を言い立てる自分の言葉の空虚さと暴力性を実感しないわけにはいかない。それもまた事実である。


番組では、米軍が日本の木造住宅をもっとも効果的に炎上させるための焼夷弾を、度重なる実験によって選び出した事実が紹介されていた。
使われた焼夷弾は、鉄製の筒の中にゼリー状になったガソリンが入れられており、屋根を突き破って着弾した後に爆発して、家のなかに燃え上がったゼリー状のガソリンを撒き散らし、「内側から」木造家屋を焼き尽くすタイプのものだったそうだ。
実験の様子を収めた映像の中で、このゼリー状のガソリンが入った袋を振り回してニヤニヤ笑っていた若い米兵の顔を直視できなかった。戦争や軍隊は、人間をああいうふうにしてしまうものなのだ。ぼくも兵士として戦場に行ったら、あんなふうに笑うのかもしれない。そう思った。

*1:これは、空襲を実行したアメリカ兵たちにも同様にあてはまるだろう。番組に登場した彼らの何人かもまた、重すぎる荷を背負わされて、その後の日々を生きてきたのだと、ぼくは感じた。