愛国心と「国民であること」

昨日書いた、「たまごの距離」さんの記事への言及だが、「自然な感情」の方に話が集中してしまって、あの記事の出発点である「愛国心」というテーマをスルーするみたいになってしまった。少しこのことについても書いておこう。

愛国心という心情について

まず「愛国心」について最近ぼくが思うことのひとつは、自分にはそういうものはないとおもうし、人から「愛国心を持て」というふうに強要されるのは甚だ嫌だけれども、他人に関しては、「愛国心」によって幸せになる人がいるのなら、それはそれでいいのではないか、ということだ。
これは、国家や集団のイデオロギーとしてのそれではなく、個人の感情や傾向としての「愛国心」と呼ばれるものについての話である。
たとえば、ぼくは日本はアジアの国々と和解することが大事だとおもっているし、「平和」を大切にしたいともおもっている。だが、「愛国心」を持っている人のなかにも、これに同意する人はたくさんいるであろう。「愛国心」という熱情がエネルギー源になって、ぼくが漠然と願っているよりも価値のある大きなことを、そういう人たちが実現するということもありそうだ。
いや、そういう大きいところに結びつかなくても、たとえば「愛国心」というひとつのものが、ひとりの人間に力を与え幸福にするなら、あるいは生きる支えになっているなら、それを否定するわけにはいかないだろう。


どんな人間も、心の偏りを免れることができず、その多様な偏りを認め合うことで形成されるべきなのが人間の社会というものだとすると、なぜ「愛国心」という偏りだけが許されないもののようにかんがえられたりするのか、ちょっとわかりにくい。
いや、誰もそうかんがえているわけでもないのだろうが、実際にはそれは国などによる強制につながりやすいし、危険におもえるから、ということであろう。
たしかに、「愛国心」を公教育の場で強制するなどということはあってはならないだろうし、「国家」のような行政機構などによって悪用される可能性が、「愛国心」にはある。
しかしそれは、「国家」がわるいのであって、「愛国心」を心の糧にしている人がわるいのではないだろう。「愛国心」の対象が、かならず「国家」、それもいまある「国家」であると決まっているわけではない。現実には、そういうふうになりがちかもしれないが、やはり本来は違うとおもうのだ。マイケル・ムーアみたいな人もいるわけだし(ぼくがイメージする代表的な愛国者は、彼のような人だ)。
愛国心」から出発して、自国民以外の人々との和解や、平和の実現に向かうということは、十分にあるとおもうし、そう信じたい。ぼくはそういう道筋はとらないが、個人としてそういう道をとる人があったって、全然かまわない。というか、そういう人は自分の道筋を他人に言われて簡単に変えたりはするまい。


たしかに今日の日本では、「愛国心」を持つことが「自然」で当然であり、それをもたない人間は「自然でない」「おかしい」といった「常識」が作られつつある、という方が真実かもしれない。こんなふうに「愛国心」の肩を持たなくても、「愛国心」は堂々と我が物顔に社会の中心を独占しつつあるではないか、という意見もあろう。
しかし、そういうレディメイドのものが、ほんとうの「愛国心」であろうか。ぼくが言っているのは、このことだ。たとえば愛郷心のようなものとか、家族や身近な人たちに対する愛情とか、いろいろな小さい熱い心情が「愛国心」と仮によばれうる形をとったとき、というより本人自身がそれを「愛国心」と名づけたとき、それ自体には「制度」の刻印は記されていないだろう。いや、厳密に言えば記されているのだろうが、そういってしまうとなにも記されていない心情というのはないわけだから、空疎な話になってしまう。ここは、「不純」であってよい。
問題は、この特定の心情が国家という行政制度や、企業とか市場や、マスコミや政治団体など、大きな力に回収され利用されるということであろう。この段階で、「愛国心」が偏狭な排外意識につながったり、国家と一体化してしまって戦争を支持したりということが起きるのではないか。
これはちょっと、きれいに図式化しすぎかな?
でも、「愛国心」が、排外意識につながらず近隣への友好的な意識につながったり、仲良く穏やかに暮らすことを愛する気持ちの源になりうるという可能性を、手放したくない。もちろん、これは「愛国心」だけでなく、たとえば「反愛国心」であっても同様である。

現代の愛国心教育は?

以上書いたことは、個人的嗜好としての「愛国心」についての、ぼくの見解である。国家による「愛国心」教育が、それを持つことが日本人なら当然だ、という論理でおこなわれることには、同意できない。またもちろん、「愛国心」に限らず、ある心情や思想を公教育の場で押し付けることは、とりあえずよくない。
だが、いま教育の現場でどの程度「愛国心」教育のようなものがおこなわれているのか、よく知らないのだが、いまの教育体制の根本的な問題点は、支配的な大きな秩序の命令を疑わず従う人間を作ろうとしている点にあるのではないか、とおもう。その大きな傾向のうえに乗っかって、「愛国心」教育という、いまの国家にとって都合のいいものが行われているというかんじがする。
どちらがいいか、わるいかは別にして、戦前の「愛国心」教育とはかなり違った部分があるのではないかと想像するのだが、実際はどうだろうか。

「国民の責任」

ここからは、国家という制度や法と個人の関係、また「国民であること」とはどういうことか、などについてかんがえてみたい。
まず、昨日の文章の最後で書いたことだが、ぼくは日中戦争や太平洋戦争の戦争責任は、国民にこそあるとおもっているのだ。戦前の国家体制や法体系だと、国民主権でもいまのような議会制民主主義でもないから、制度的には国民に責任はないのかもしれないが、重要なのは、戦前国民だった同じ人たちが戦後もやはり国民として生きて、この国の体制の構築の一翼を担ったということだ。
つまり、一人の人生のなかでは、「国民であること」は一貫しているはずなのだ。そのとき、自分が国民として属していた国家がおこなった戦争や侵略に関して、「自分たちには責任がなかった」というふうにいえば、この戦争によって被害を受けた自国民以外の人たちに対して、日本国民である人々の位置づけはどうなるのか、ということだ。それは、法や制度のうえからは責任がなくても、やはり引き継がなければいけないものがあるのではないか。法的・制度的な実体はないが、他人に対する倫理の問題として、自分が属する国家がおこなったことに対する責任は、やはり国民という行政上の名の下に一人一人が背負うべきだ、というのがぼくのかんがえだ。
その責任のとり方は、戦争を行なった上部の責任者の国民自身の手による処罰など、さまざまな意見・方法があるであろうが、まず何より先にそうした解決のための行動をとる一次的な責任が日本国民自身にあるということを、確認するべきである(あった)とおもう。
国民と国家、国民である大衆と戦争指導者たちだけの関係をかんがえるなら、「国民」という概念にこだわる必要はない。だが、現在でも変わりがないように、「国民であること」と「国民でないこと」との間には、歴然とした区分がある。「国民」は、この区分の外側にいる人々に対して、国が行ったことに対する責任を持たねばならない。また、この人々の存在をかんがえる場合にだけ、「国民」という集合体は実際的な意味をもつ。
ぼくは、そういうふうにかんがえる。

「国民であること」とは

だから、ぼくのかんがえでは、「国民」とは世代を越えて継承される時間的な連続体である前に、国民以外の人たちとの関係において規定される空間的な集合体であり、立場だということになる。
戦争を越えて生きた日本国民が戦前の自国の行動に関して責任を持つべきだというのは、この一人の日本国民の、日本国民以外の人々に対する関係から生じることであって、「日本国民であること」という時間的な連続性から生じる論理ではない。また、現在に生きるぼくたちに日本という国が過去におこなったことについての責任があるとかんがえられるのも、世代を越えた「日本国民であること」の継承に基づくのではなく、日本という国家や社会構造とこの日本国民以外の人たちとの関係が、基本的に現在も改善されないままにあるからだ。
つまり、(繰り返しになるが)ぼくがかんがえる「国民であること」とは、現時点での他者との関係に基づいてのみ意味を持ちうる事柄である。


前回、「憲法」のことなど、えらそうに書いたが、ぼくはまだ日本国憲法の全文を読んだことがないのである。いまの憲法論議に対する意見も、正直ほとんど定まっていない。
しかし、聞くところによると憲法とは市民である国民が国家を縛るためにあるものだそうだから、国家が自国民以外の人たちに対しても悪いことをしないように、憲法をしっかりかんがえていく義務がぼくたちにはあるわけだ。
このように、「自国民以外の人たち」(もちろん、国内の存在としては在日朝鮮人など在日外国人のことを具体的にはかんがえているわけだが)を重視するのは、その存在を特権化するためではない。そうではなく、国民である個人が、自分と国家との関係をとらえようとするときに、そうした人たちの存在を考慮することによってのみ、クリアになる部分があると思うからである。