強制労働と現在

きのうに続いて、「東アジア共同ワークショップ」に関することを書く。

遺骨の発掘

この集まりは、97年以後、夏と冬の年二回おこなわれている。冬は毎年、ぼくが先日まで行っていた朱鞠内という場所でおこなわれているが、夏の方はこれまで日本や韓国の各地でおこなわれてきた。第一回は97年夏、如上の朱鞠内という北海道の内陸部の場所で開催された。日本や韓国から、両国の大学生や社会人、在日朝鮮人アイヌの若者たちなどが集まり、何をしたかというと、鬱蒼と生い茂った笹薮の下に埋められたままになっていた朝鮮人や日本人の遺骨を掘ったのである。
この場所は、終戦までの10年間、ダム工事と鉄道工事がおこなわれ、植民地だった朝鮮半島から動員されて連れてこられた朝鮮人たちや、色々な事情から借金を背負うはめになり「タコ部屋」というところに押し込められた日本の貧しい人たちが、想像を絶するようなひどい労働条件と、真冬にはマイナス30度、40度にもなる厳しい自然環境のなかで強制的に働かされていた。そのなかで、分かっているだけでも200人以上というたくさんの人たちが亡くなり、朱鞠内の笹薮のなかに埋葬された。埋葬といっても、墓標があるわけでもなく、その土地の共同墓地の周辺に、多くは土葬、一部の人は火葬されて埋められたのである。
笹薮の下で朽ち果てようとしていた、この人々の遺骨を、如上の若者たちが何日もかかって共同で発掘した。それが、このワークショップの始まりである。発掘された骨は、身元が確認されると、日本国内や韓国の遺族に返還された。なぜ身元が分かるかというと、印鑑などの副葬品や形質人類学的な鑑定によって分かるらしいのだが、とにかく長い年月が経っているということがあって、身元の特定は非常に困難であるようだ。
ワークショップの重要な要素であり出発点は、この遺骨の発掘と遺族への返還ということであり、この活動は、空知民衆史講座という北海道の人たちのグループが70年代以降地道におこなってきた運動を、一部分引き継いだものだといえる。

遺骨問題と非自立的な国

日本の国内には、戦前や戦争中に動員され連行されてきて強制的に働かされていた朝鮮人や中国人の遺骨がたくさん眠っているそうだ。お寺などに安置されているものも、まだどこかの土のなかに埋められたままのものも多くあるであろう。
最近では、札幌の西本願寺別院というところで、戦時下の強制労働において犠牲となった朝鮮人や中国人の多数の遺骨が名簿を伴って発見され、話題となった。そしてあろうことか、これらの骨はひとまとめに合葬されていて、どれが誰のものか分からなくなってしまっていた。このため、名簿を頼りに遺族を探し出し、日本まで来てもらっても、肉親の遺骨を持ち帰ることさえできないのである。
戦時下に強制連行を行った日本の政府も、かつてこの労働者たちを使役した日本の企業も、この問題の解決に向かって、なんら誠意のある態度を示していない。政府としては、先延ばしにしてあきらめさせ、「なかったこと」になるのを待とうということであろう。
日本政府の関係者は、こうした強制動員の被害についての実態調査を行いたいとする韓国政府の調査団の要請に「協力したい」とこたえたそうだが、もともと一体誰がやるべきことなのか。ふざけるな、と言いたい。
また、企業側も、戦前におこなわれたことについての責任はとれない、という態度をとっている。「努力したいが、この不況下ではできない」という言い分もされているようだ。
戦前にやったことの責任を、まったくとらないというのが、日本の政府や企業の大きな特徴であるようだ。なぜそうなるかというと、戦争が終わったとき、自分たちの手で本当のリセットをおこなわないままに戦後の体制に移行してしまったため、「過去の自分」を引き受けるような確固とした自己を作れなかったからではないだろうか。過去を引き受けて自己に責任をとることができず、国際間の難しいことはアメリカに依存して、「先延ばし」を重ねて過去の風化を待つ。自国の歴史と本当に向き合えない、だらだらした非自立的な国になってしまった。そのどん詰まりのようにして、いまのこの現実があるのだとおもう。
腹立たしいというばかりでなく、とても情けないとぼくがかんじるのは、国のこのあり方と自分という個人の生き方とがどこかで重なっているとおもえるからだ。
国民である自分と国との関係ではなく、この国と他者との関係に重心をおいてかんがえても、もっとちゃんとした自立した国にならないといけない。その意味は、過去におこなったことに対して自力で責任をとれる国、ということだ。日本という国家がそうなるように努力してこなかった、ぼくたちの責任は重い。

「タコ部屋」労働について

話がそれたが、今回の冬のワークショップでも、戦前・戦中の過酷な強制労働についての説明がなされた。ぼくは聞いていて、朝鮮半島やそこの出身の人たちのことばかりでなく、自分を含めたいまの日本の大人や若者たちの現状に重なるものとして、日本人の「タコ部屋」労働者のことについて、いままで以上の関心をもたざるをえなかった。
専門の歴史学者の方の話では、朝鮮人労働者に対して「タコ部屋送りにするぞ」という言葉が脅し文句として通用するほど、「タコ部屋」労働の実態はひどかったという。もちろん、これは「どちらがひどいか」という問題ではないが、「タコ部屋」労働者が、朝鮮人たちよりましな条件に置かれていたとは必ずしもいえないのだ。
各地から集められてこの極寒の地に送り込まれてきた「タコ部屋」労働者たちは、借金を背負っているため、囚人同様の扱いを受けた。いや、彼らが囚人や朝鮮人、中国人よりもひどい境遇に置かれていたともかんがえられるわけは、強制連行・強制労働や犯罪者の収監と違って、「タコ部屋」という存在は国家的な営為ではなく、「タコ部屋」労働は国家による管理の外にあるものだったからである。つまり、建前に過ぎないものとはいえ、国家による法に基づいた管理がおこなわれた朝鮮人などに対する使役よりも、さらに野蛮で残虐な搾取や虐待がおこなわれたかも知れないのである。
ぼくがおもうに、「タコ部屋」という民間の制度は、国家装置の外にあるものではなく、合法性の外側で国家と不可分のものとして、国家の行為を支えているものであろう。国家と資本の結びつきとは、じつはつねにそうしたものなのだろう。

線引きの恣意性

ぼくはこの話を聞いていて、問題の根本は、ある種類の人間を物として使用可能な存在にしてしまう機構そのものにあるというしかない、とおもった。
どういう人間を、そういう物にしかすぎない存在とするかは、国家や資本の恣意による。あるときは、国籍や民族がその理由とされ、あるときには法が、またあるときには階級が、さらには別の基準が、その線引きを決定するのだろう。
国家主義」を建前としていたかにみえる戦前や戦中の日本においても、その線引きは、じつは恣意的だった。国家が国民を守るとかんがえるのは、企業が消費者の権益を保護するとかんがえること以上にナンセンスなのだろう。
現在の日本社会では、この線引きの恣意性が、再び露呈してきている。多くの若者は、日本国民であろうとなかろうと、「部品」として、もしくはたんに「余剰」として扱われ、過酷な生産現場や路傍での死や、あるいは戦場に送られようとしている。


そういえば、先日からこのブログで何度も紹介してきた番組『フリーター漂流』で映し出されていたのも、北海道の青年たちの姿だった。ぼくは、バスに揺られていくあの若者たちの姿に「戦争」の影を重ねて見てしまったのだが、あそこでも書いたように、現実にいまの北海道では、自衛隊は若者たちにとって数少ない就職先だ。そして先ごろ、制服に身を包んだ若者たちがイラクへと出発していった旭川は、朱鞠内から程近い。
戦後一度も向かい合わず、ぼくたちが否認することしかしてこなかった戦争の影は、かつてとはやや異なるすがたで、いま当然のように回帰し、ぼくたちに復讐しようとしている。そんな気がする。