ハンドルネームのこと

じつは書くほどのことでもないのだが、この機会に「ハンドルネーム」について、少し書いておこう。
ぼくは、いま入っている複数のMLでは、いずれも実名をハンドルネーム代わりにしている。分かりやすくいうと、実名を用いているということだ。そう書かなかったのは、名前以外の個人情報はあまり開示していないからだ。居住地を大雑把に書いて、名前が書いてあるだけでは、実際にどこの誰なのかというのは、知人以外には分かりにくいであろう。
つまり、実名といっても、実際は記号みたいに使ってるわけだ。
だが、このブログではArisanというハンドルネームを用いていて実名は使っていない。
これにはいくつか、といってもいずれもささいな理由があるのだが、そのひとつは、他の多くのブログの先輩たちも、他の仕事で特に有名な方以外はたいていハンドルネームを用いられているようであるし、そういう既存の「文化」を尊重しようという気持ちがある。
ネットに限らず、『匿名性は民主主義の重要な要素である』という言い方があるが、それほどだいそれた思いがあってのことではなく、ほんとに「文化を尊重して」みたいな感じがつよい。
それも結構大事なことではないかとおもう。
じつをいうと、MLなどに入りたての頃は、そこでもハンドルネームを用いていた。やがてそれを使わなくなり、実名を用いるようになったのは、「名を売りたい」という下心以外に、じつのところハンドルネームという虚構の人格を維持していくことが、ぼくには耐えられなくなったからだ。
これは、ぼくが他人に嘘を突き通すということがたいへん苦手であるのと、同じ理由によるものだろう。ようは構成力がないのであって、これはぼくの自立心の弱さに重なっている。
ベンヤミンカフカ丸山真男を引き合いにだすまでもなく、「秘密」を守り、「嘘」をつき通す構成力こそ、権力に抗して個人と市民社会が独立性を保つもっとも重要な要件だ。子どもは、親たちに知られない秘密の小部屋をこころのなかに持つことによって大人になるのだと、たしかベンヤミンも書いていた(結局引き合いに出したが)。
ぼくは、そういう社会的な努力を維持することができず、ハンドルネームを放棄した。つまりは「転向」であり、「ネット民主主義」に対する裏切り行為であったかもしれない。
そんなわけないけど。


まあ、そういう反省が多少あったこともあり、今回はハンドルネームでなるべく通してみようとおもったわけだ。
それから、いまたまたまプロフィールに、(たぶんぼくのものとおもわれる)顔写真を載せている。これも別段の理由はないのだが、あえていえば、実際のぼくとブログでのArisanとが重なるポイントをサイトの中につくっておきたいとおもったわけだが、その際、名前をプロフィールに載せるよりも、写真の方が愛嬌があるような気がしたのである。
それから、あまり見かけない手法に思えたので、どんなことになるのか実験してみたかったのだ。
でも、ハンドルネームの件と同じで、そのうち飽きたり気が変わって、方針を変えるかもしれない。
なにぶん、そういう人間なのでご容赦いただきたい。