蹴球にふれて

来週、日本と北朝鮮のサッカーの試合があるということで、テレビでもそのことがよく報道されている。いまは、両国の関係がよくないということで、試合当日に「不測の事態」が起きないかと、政府も神経を尖らせているというニュースがあった。

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政府もマスコミも、あれだけ排外的な意識を煽っておいていまさらという感はあるが、実際、「不測の事態」がもし起きれば日本の国際的な立場や信用が落ちることは必至だから、政府としてはなんとしても防ぎたいのが本音だろう。
だが、本当の危険は、それとは別のところにあるとおもう。それについては、最後にふれる。

偏狭な「趣味」の話

さて、いきなり不健康なことを書くが、ぼくはどういうものか、「日本対どこそこ」という国際試合で、日本の方を応援したことがない。むしろ、日本の選手や代表チームが対戦している相手の方を応援する、いや実際はそんな積極的なものではなく、「日本側が負けること」を願望するのだ。早い話が、「アンチ日本」という、屈折した心情のあらわれであって、これは、思想的とか倫理的とかいえる理由からではなく、きのう書いたことでいうと「趣味」的な理由によるものだ。つまらない「趣味」だが仕方がない。
簡単に言うと、圧倒的な多数が応援するものや、それを応援することが当然であると見なされる方を応援するのが嫌なのである。少し曖昧な印象を与えるのを承知でいうと、ぼくが「アンチ巨人」であり、「アンチ若貴」(古い!)であったのと、基本的に一緒だ。こう書くと、なにか正義感のあらわれのようでもあるが、じつは、もっとネガティブな感情だ。
ぼくにも社会的な正義の意識や倫理観のようなものが、希薄ながら(ほんとに希薄です)ないわけではないが、それとこのこととは違うのだ。どこかでつながってるかもしれないが、もともとは違う。


戦前、大相撲に双葉山という名力士がいて、69連勝という大記録を作った。ちょうど日中戦争の初期の展開にその勝利の歩みが重なったということがあり、当時は国民的な人気が沸騰したそうだ。マスコミも、いま以上に煽ったのであろう。
作家の武田泰淳が、その時期を回想してこういうことを書いている。

私自身の場合、かつて自分と同年の双葉山が優勝を続けている間、心やすらかでなかった記憶がある。彼が日本一であり、不敗の強者であり、しかもソツがなく、堂々としていること。自分と縁のない彼に対して、私はただそのためにのみ嫉妬したものであった。その時の私は、国技館の炎上、双葉山の挫折、つまりは絶対的なものに、もろき部分、やがて崩れ行くきざしを見たいと、どれほど願ったことであろうか。

この一節は、集英社版日本文学全集の『武田泰淳集』の巻末に埴谷雄高が書いている「作家と作品」のなかに引用されている文章の一部で、原典はどのエッセイかはっきりわからない。たぶん、「滅亡について」というエッセイなのではないかと思うが、関心のある人は調べてみてください。
上の回想は、「滅亡」という観念について語った思弁的な文脈のなかに出てくるのだが、いかにも泰淳らしい文章だ。
ここでは作家は、日中戦争の遂行や「国民的」な熱狂が気に入らなくて双葉山の挫折を願ったわけではなく、ぼくにいわせれば「趣味」の問題としてそれを念願したわけである。
しかし、泰淳の場合、この「趣味」は一貫した。
引用してみてわかったが、泰淳のこの強靭な精神性を、ぼくのネガティブな感情と並べるのは失礼だ。しかし、この文章には、どこか「よくわかる」という気にさせられるところがある。


ぼくの場合、これは正直、あまりいいことでないと思うが、巨人を応援したくないのと同じで、日本チームを応援したくないという「趣味」は、自分でもどうしようもない。牛肉の脂身がどうしても食べられないのと同じだ。じつは、西武ライオンズの全盛時代に「巨人対西武」という日本シリーズで、一度だけ巨人を応援したことがあるが、まったく面白くなかった。
政治的な正義というものは、こういうものではないだろう。これはむしろ偏見にちかい。しかも、かなり度がきつい。
もし自分が日本人でなければ、このことをそう悩む必要もないであろうが、「日本人」であるのに日本代表を目の敵にするというのは、屈折しているとしかいいようがない。いやいや、本当はそういうことではなくて、日本チームだろうがどこだろうが、「どこそこが負けることを願う」というネガティブな態度がよくないのだ。上の武田泰淳の文章を読んでホッとするのも、そのよからぬネガティブさをこの大文学者も共有してくれているという安堵感なのであろう。ちょっと、ルソー的なかんじだ。
「どこそこを応援する」という態度に比べて、「どこそこが負けることを願う」という態度は、不健康でネガティブだ。つまり、過剰に「趣味」的である。


しかし、そこに肯定的な要素がまるで見出せないわけでもないとおもう。
それは「圧倒的な多数の意見に同調しない自由」を守ることにつながるという点だ。
日本人でありながら、日本の代表チームを応援せず、むしろそれが負けることを願うという態度は、「裏返しのショービニズム」のようなところがあり、それ自体としては積極的な価値を見出しがたいが、しかし、「趣味」というのはもともとそういうものだ。それが社会全体の趨勢に対して少数であるからといって、否定されたり、まして他人から非難される筋合いはない。
ぼくが、こういう変わった「趣味」を持っているということは、それを貫くことができれば、自他の社会的自由の擁護のための実践となりうるだろう。


まして、今回の「日本対北朝鮮」などという場合には、どちらを応援するかについて政治的・社会的な強制力が働いていることは明白ではないか。
自分のネガティブな感情は別にしても、どんなにポジティブな人でも、今回は「日本」チームを応援することがためらわれるはずだ。それほど、状況はひどい。
だから、今回もやはりとても「日本」チームを応援する気にはならない。

「政治のスポーツ化」こそ危険だ

いろいろ書いてきたが、じつは正直なところ、サッカーの試合などどうでもいいのだ。選手にとってはそういうわけにいかぬのは当たり前だが、国際試合に限らず、またスポーツに限らず、他人が一生懸命にやっていることに、同一化することで一喜一憂し、それだけならまだしも当人たちを罵倒したりするというのが、ぼくは嫌いだ。そもそもスポーツの試合を「応援する」という行為に馴染めないものをかんじる。
だって、自分がやってるわけじゃないんだもの。


よく、「スポーツを政治化するな」ということがいわれ、最初にあげた記事のなかで日本の政府関係者もそういうことを言っているようだが、ぼくは逆に、「政治のスポーツ化」という弊害があるのではないかとおもう。
政治の本領は、特に外交においてそうだが、「勝ち負けをはっきりさせない」ことであろう。勝ち負けをはっきりさせようとおもえば、最終的には戦争という手段になる。
勝ち負けをはっきりさせるのは、むしろ近代スポーツの原理だ。
ベイトソンか誰かが書いていたが、ポリネシアの方のある島では、二つの部族による大きな球技の試合が恒例となっているそうだ。これは、植民地化の時期にヨーロッパ人がなんらかの球技を伝えたことが始まりであるそうだが、島民たちは、それに大きなルール変更を加えた。一定の点数を越えて同点になるまで試合を続ける、ということである。つまり、勝者と敗者を作らないようにするということで、こうした知恵は、沖縄を含めて広い地域の文化にみられるもののようだ。
「勝者」「敗者」を確定する近代スポーツの原理は、こういう知恵の対極にあるものだ。それは、このスポーツが生まれた時代背景をかんがえれば当然なことであろうが、いま重要なのは、「スポーツであれば」どんなに勝ち負けに熱狂しても許されるという、もっとも危険な政治的な発想に呑み込まれてしまわないことである。
本当は、スポーツだからこそ危険なのだ。広く認められたスポーツの熱狂を通して、「国民的」な憎悪や愛国心が、「自然な感情」として増幅されていく。勝者と敗者を確定せずにはいない、近代的な闘争の原理が、スポーツの名のもとに「政治」という人々の知恵を押し流していく。
来る日本と北朝鮮のサッカーの試合でも、こうしたイデオロギーの思う壺にはまることのないよう、われわれはこころがけるべきであろう。