言語の多数性と「解離」

先日の文章のなかで、「林立する小さな共同体」への主体の複数帰属がはらむ「解離的」な性格について、これを言語が本来有している性格(多数性)と関連付けて書いたが、そこでいう言語の多数性というのが、どういうことを指しているのか分かりにくかったとおもう。
あのように書いたとき、『千のプラトー』のなかでドゥルーズ=ガタリ(DG)が書いていた文章の一節が頭にあった。それをここに書いておきたい。


言語について『千のプラトー

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

では、じつにさまざまなことが語られている。たとえば、次のような文章が最初の方に出てくる。

言語それ自体というものもなければ、言語活動の普遍性というものもなく、方言、俚言、隠語、特殊言語などの交錯があるだけなのだ。理想的な話し手‐聞き手というものがないのと同様、等質的な言語共同体というものもない。言語とは、ヴァインリッヒの言い方にしたがえば、「本質的に非等質的な現実」である。母〔国〕語というものはなく、一個の政治的多様体における一個の支配的言語による権力奪取があるだけだ。(p20)

こうした言語観は、とくに目新しいものではないだろう。こういう視点(抑圧的なメカニズムへの批判)からラング(国語)を政治的な構築物としてとらえる見方、そしてあらゆるラングが内包する多数性を強調する方法は、今日なお権力に抵抗するためのきわめて有効で重要な戦略を提供してくれるものだが、いまぼくの関心はここにはない。
関心があるのは、次のように書かれている言語の「多数性」についてである。

もしラボフが自分に課した限界を、また言語学が依存している科学性の諸条件をわれわれが突破しなくてはならないとしたら、一つの言語に内側から働きかけるあの連続変化をどのように考えるべきだろうか。たった一日のあいだに、一人の個人はたえず一つの言語から他の言語に移動する。次々と、彼は「父親らしく」話し、また主人として話し、愛する人には子どもじみた言語を話し、眠っているときは夢幻的な言説の中に潜りこみ、電話がなると突然職業的な言語に戻る。これらの変化は外的なものにすぎず、やはり同じ言語があるにすぎない、と反論する人があるだろう。しかし、それは問題となっている事柄に予断を下すことになる。(p114)

ここで、DGが「解離」という概念に関係する事柄をかんがえているのは明白だとおもわれる。ここでは、抑圧的な、あるいは中央集権的な権力のそれとは、別種の権力のメカニズムが考慮されている。人は、一つの言語のなかで、それと意識することなく「多数性」をすでに生きているわけだが、この多数性は、政治権力の働きを否定する方向には向かわず、むしろ権力を強化する装置として機能する。この多数性は、意識されることなくやすやすと「使い分け」られるからだ。先日書いたように、それは、われわれが日常において決して他者に遭遇しないための装置になっているのである。こうした多数性は、抑圧的な統一性以上に強力で危険だとさえおもえる。
この「使い分け」が日常的になされている以上、「解離」的とぼくが呼んだような意識のあり方を病的なものと決めつけることはできない。それは、現代に生きるわれわれの、きわめて基本的な生存のスタイルだといえるだろう。
また「解離」的な意識を、主体的・統合的な意識のあり方に比して非本来的なもののように見なすかんがえ方も疑問である。
DGは、80年に出版された『千のプラトー』では、この方向に考察をすすめてはいない。むしろ上記の文章は、はじめに書いたような抑圧的権力を解体させるような意味での「言語の多数性」を示唆する意図で書かれているとおもうのだが、DGは、すでにこうした重要な問題が顕在化しつつあることを意識していたのではないだろうか。


この、われわれが日常の生活のなかで、さまざまな種類の言語を無意識に使い分けているという観点は、「理念」による統一性が機能していた時代には顕在化することがなかったはずだ。誰かがそれに気づいても、大きな問題にはならなかっただろう。こうした「多数性」が現実感をもって意識されるようになるのは、80年代以後、「理念の死」が明確になってからのことだ。それは、われわれの生存の状況が大きく変容したことを示しており、そこにDGは彼らが構想したような社会変革のあり方(ミクロ政治学)につながる積極的な意義を見出そうとしたのだとおもう。この炯眼は、高く評価されるべきだろう。だが同時に、この多数性がわれわれの「内なる権力」として働く危険性も、この変容によって大きく高まったわけだ。
何度も言うように、ぼくは現代の人々の一般的な特徴とおもわれる「解離」的な意識のあり方というものを、特に非難したいわけではない。むしろぼく自身は、過剰なほど「解離」的な性格であるとおもう。ただ、条件によっては「抵抗」の手段でありうる「主体化」が、ある場合には権力装置となるのと同様に、「解離」的な意識の状態も、場合によっては権力の道具として使用されてしまうという当たり前のことを言っているだけなのだ。