内部告発考

Arisan2005-02-01

1日は全国的に気温が下がったようで、ぼくが住んでいる大阪の北部でも未明から雪が降ってうっすらと積り、午後になっても日陰にはまだわずかに名残があった。
写真は、自宅の中庭で撮影したものだ。


ところで、ぼくは新聞を読まないしテレビもあまり見ないので、世の中の動きがいまひとつよく分かっていないのだが、最近ひとつおもうことは、先日のNHKの件もそうだし、警察や検察の問題など、このところ「内部告発」をおこなった本人の方が窮地に追い込まれているということをよく耳にするということだ。
NHKの件では、あの告発した人がどうなったかよく知らないのだが、愛媛県の警察の人が左遷されたり、今日も大阪高検の元部長が有罪判決を受けたことがニュースになっていた
この高検の元部長という人は、マスコミに検察内部の問題を話そうとしたところ、口封じ的に逮捕・起訴していたと主張していたはずだ。
また、これは厳密な「内部」とは異なるかもしれないが、あの「西宮冷蔵」の社長のことは、記憶にあたらしい。


NHKの件でもそうだが、こういう場合よく、告発した側にも批判されるべき点があった、というふうに言われる。
たしかに自分が属する組織、それも巨大な組織を向こうに回して戦おうという人たちだから、小市民的な基準からは外れるような人がいても不思議ではない。あまり優等生的な人では、そんな思い切ったことはできないだろう。
だからといって、その人たちが巨大な組織を告発したということの重みを、そういう個人的な要素によって、打ち消してよいはずがない。
事の真相を云々する前に、その勇気と行動をまずは評価するという姿勢があって当然ではないだろうか。それが見られないことが、内部告発者が組織によって窮地に追い込まれることを許す風潮につながっているようにおもう。

告発することを「倫理」の問題、当人の性格や内情に関してあげつらうことを「趣味」の問題ととらえれば、旧式の「倫理」や社会正義に疑いをもち、自分の「趣味」に基づく判断を重んじるという態度は分からないではない。正直、この場合はあまり高級な「趣味」ともおもえないが、「趣味」を拠り所にしたいということ自体は、理解できるということだ。
しかしたいていの場合は、どうもそんな立派なことではないようにおもえる。
これは、自分にもそういうところがあるから書くのだが、こうした「内部告発」のような出来事に触れて、まず告発者の側の内情や人格を批判的に見ることに意識がいくのは、自分に組織や国や社会を相手にして戦う勇気がないことを否認したいからにすぎない。要するに、ルサンチマンなのだ。
「正義」や「社会道徳」といった既成のフィルターに流されず、人間の弱い面や暗い面を自分の目で見極めようとする態度は大切だが、その態度が決して大きな組織に向けられないのはどうしてか。「疑う」という大事な心の働きが、相対的に弱い方の内側にばかり差し向けられるのはなぜだろうか。「孤立した個人を疑い、組織とそれに属する者はあまり疑わず、国家に対しては専ら盲従する」という態度が意味するところは、結局保身と自己弁護以外のなにものでもないであろう。

真実を見極める努力は手放さないことを条件に、個人である他人の勇気と行動に、疑うよりもさきにまず素直に驚くという精神の態度を取り戻したいものである。
驚きが先立たない「疑い」は、たんに疑っている夢を見ているに過ぎないのだから。