「環境管理型権力」について

Arisan2005-01-27

きのう書いたことをかんがえなおしてみると、「タコツボ化」というのは、まさしく「環境管理型権力」の所産だともいえる。居心地のいい壺のような空間のなかに人々を別個におしこんでおけば、大きな権力に対抗する連帯の成立を防ぐことができる。ここで重要なのは、そこに入っている人にとってはこの空間は快適なのだから、権力によっておしこめられているのだという自覚が生じにくいという点だ。

東浩紀氏について

環境管理型権力」も「タコツボ化」も、東浩紀の本で知った言葉だ。この人は71年生まれだから、ぼくより十歳ぐらい年下だが、現代社会に対する分析ではとびぬけた鋭さをもっている人だとおもう。かんがえてみると、ぼくは、この人の考え方にものすごく影響を受けている。年下の人の影響を受けるということは、頭が「柔軟」な証拠だろう(「軟弱」なだけか?)。
最初に東が出した、『存在論的、郵便的』という本は、フランスの思想家ジャック・デリダの思想を論じた本だが、これを読んだときは本当にびっくりした。哲学というものを、それもデリダのような人の思想を、こういうふうに扱う人が出てくるとは想像できなかった。非常に論理的で明晰な本だが、もっとも上質なミステリー(あるいはゲームソフト)のように面白い。しかも神秘的なところや、説教臭いところがまったくない(当たり前だけど)。彼はこれを、20台の中ごろに書いたわけだ。
次に出た『郵便的不安たち』という本では、一転して現代の日本社会の状況を論じた。前作とはまったく異なる本だが、これもすごい本だとおもった(「タコツボ化」という言葉は、この本で使われている。)。
動物化するポストモダン』では、現代社会を「動物化」という概念でとらえた。たしかこの頃からアニメやテレビゲームなどを集中的に論じるようになったとおもう。デビューしたときに、あれだけすごい「現代思想」についての本を書いたわけだが、この時点で「現代思想」というものの可能性に見切りをつけたというところがある。「動物化」という概念はそれに関係している。
しかし、見切りをつけたことは正しかったとしても、ぼくとしてはこのフィールドでもう少し活躍してもらいたかった。この「現代思想」なるものをちゃんと「埋葬」してほしかったのだ。『存在論的、郵便的』でのさばき方があまりにも見事であっただけに、ただ「現代思想は難解でなく面白い」という印象だけが残り、「難解さ」という旧来の権威性は消し去れた代わりに、「権威」が別の形で生き残ってしまった。「難解でない」というだけでなく、「害になる」というところまではっきりさせておいてほしかった。それをしなかったために(これは東だけの責任ではないが)、「現代思想」とか「哲学」が、ちょうどカフカの小説のような権力的な装置として、いまの日本では機能している。これは「現代思想」や「哲学」にとっても(自業自得ながら)不幸なことだ。

環境管理型権力とは

話がそれたが、「環境管理型権力」という言葉は、社会学者の大澤真幸との対談を収めた『自由を考える

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

という本のなかに出てくる。これも、おそろしく刺激的な本だ。この語が出てくるところをちょっと引いてみよう。

(前略)僕はこれを、ミシェル・フーコージル・ドゥルーズの仕事を参照して、「環境管理型権力」と呼んでいます。対照的に、大きな物語の共有に基礎を置く従来のタイプの権力は、「規律訓練型権力」と呼んでいます。環境管理型権力は人の行動を物理的に制限する権力ですが、規律訓練型権力はひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力です。言い換えれば、環境管理型権力は多様な価値観の共存を認めているが、規律訓練型権力は価値観の共有を基礎原理にしている。

最後のところがわかりにくいかもしれないが、ぼくの言葉でいうと、近代社会に特徴的な規律訓練型権力が「国家」や「民族」あるいは「公正」「平等」などの価値観の共有(内面化)を強いるのに対して、環境管理型権力は、個々人に自由を与えているようにみえて、その行動をじつは物理的に制限している。それが、「環境管理」ということの意味だ。
個々人の意識においては自由だとかんじられているところがポイントだ。なぜそのように感じられるかというと、この権力は、人間が「快適」であり「自由に振舞っている」と感じるような環境を作り出すことによって、行動をコントロールするものだからだ。それが「物理的に制限する」という言葉の意味である。東は、マクドナルドが、椅子を硬くしたりBGMの音量を上げたりして客の回転を良くするという消費者管理を行なっていることを例にあげているが、「安全で快適な環境」を求めるわれわれの感覚に物理的に働きかけて行動を規定してしまう資本・行政・マスコミのやり方は、日常いたる所に見出せるだろう。
これは、人間を「人間(主体)」として扱うことによって支配・管理する近代的な権力の方法(規律訓練型権力)に対して、人間を「家畜(動物)」として扱うタイプの権力だと、東はいう。快適な環境を作り出すことで物理的に行動を管理してしまおうというのは、家畜を飼育する場合の発想だからだ。
といっても、前者に比べて特にこの新しい権力がひどいものだとはいえないのは、人間にはもともと「人間」としての部分以外に「動物」としての部分もあるからだ。どちらの要素に働きかけるかという違いがあるだけで、規律訓練型権力環境管理型権力も、権力であることにはかわりない。
また、「主体化」も「家畜化」も、生の物象化であるという点では同じだ。

憲法論議が盛り上がらない理由

こうした権力の変容は、「大きな物語の凋落」と東がいう、特に1970年代以降顕著になった社会全体の変化に関係しているとされる。これは、ぼくが先に書いた「理念の死」ということと同義とかんがえていいだろう。
つまり、社会全体の変化がさきにあって、権力がそれに対応してやり方を変えてきている。「人間を家畜として扱うのはひどいことだから闘おう」(それはそのとおりだが)というだけでは事はすまないのだ。
たとえば、社会運動に関しても、「理念」が生きていた社会であれば、言葉(イデオロギー)を用いることによって、人々は動いただろう。だが、言葉がまったく力を失ったとはいわないまでも、言葉というものの機能の仕方が大きく変わってしまった。「理念」だけで人を動かすのはもう無理だ。「憲法」を論議することの難しさも、ひとつにはここにある。言葉や「理念」に対する信頼が失われているのだから、「理念」そのものである憲法を真剣に論じることはたやすくない。「誰にも分かる簡単な言葉で」という試みはわかるが、実際にはそういう憲法の文面にするわけにもいかないだろう。

「理念の死」は悪いことか

ひとついえることは、いま「理念の死」を一大事のようにいうが、そもそも「理念」なるものが大きな力を持ったのは、人間の歴史のなかでは限られた時代にすぎないということだ。しかも、この時代がそれ以前に比べてましだったかというと、むしろより破壊的な時代だったというべきだろう。
だから、「理念の死」自体を悪いことのようにかんがえ、「理念」の復権を目指すということは、必要な場合もあるであろうが、まずうまくいくとはおもえない。
むしろ、権力がそうしているように、「理念」なしですませるということも、少しはかんがえていくべきだろう。つまり、「哲学」や「思想」によってではなく、「環境」(たとえば音楽)によって人の心を変え、世の中を平和に変えていくということだ。
それに応じて、言葉というものも、「理念」から解き放たれ、より柔らかくやさしく、人間の生に密着したものになっていく。
実際、世の中を変えようとする人たちのなかでも、大きな流れはそちらの方に向いているといえよう。
大きな流れはそれでいいのだが、残念ながら、いまの世の中は実際には「言語」が支配している。「理念」は大きく力を失ったが、そのことによって「言語」の悪しき支配はかえって力を増したというのが、真実ではないだろうか。
だから、「憲法」をめぐる議論のように、権力に対する言葉によるたたかいが続けられる必要があるのだ。しかしこの抵抗する側の言葉が、支配者のものと同じ「言語」に変質してしまえば、たたかいはなんの意味ももたなくなるだろう。

中途半端だが、今日はここで終わる。