「環境管理型権力」と「タコツボ化」

Arisan2005-01-28

きのうは、東浩紀氏が述べている「環境管理型権力」ということについてかんがえたわけだが、これと「タコツボ化」ということとの関連については書けなかった。そこで、今日はそれについてかんがえてみよう。
これは言うまでもないことだけど、念のために書いておくと、ぼくが、ここに本に書いてあることの紹介などを書くのは、こういう事柄に関してはこういう参考文献があるという情報を紹介したいという意味合いもある。理解力という点でも、実践的な問題との関連付けという点でも、ぼくよりもこれを読んでいる人たちの多くの方が、きっとぼくよりもすぐれているだろう。だがたまたま、ぼくが知っている本を、その人たちが読んでいないとか、読んでいても素通りしているという場合があるかもしれない。その可能性をかんがえ、少しでも助力ができればいい、ということもかんがえているのだ。これは、本当に微小な可能性だが、それを信じることが張り合いになる。元手としては、たいへん安上がりであるといえよう。
だから、これを読んで興味を持った人は、ぼくの要約や感想を信じないで、是非ご自分でその本を読んでもらいたい。

「タコツボ化」とは

この「タコツボ化」という語についても、ぼくは東の著書のなかで知ったとおもうのだが、ちょっと使われているところを見つけられない。
99年に出版された『郵便的不安たち』

郵便的不安たち

郵便的不安たち

郵便的不安たち# (朝日文庫)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

という本のなかで、東が「林立する趣味の共同体」として語っている状況が、これにあたるものとかんがえていいだろう。これは、90年代に入って、『社会全体をまとめあげる「大きな物語」が機能不全に陥り』、各自が自分に関心のある小さな趣味の共同体に閉じこもってしまったという日本の社会の状況を指している。それは、言語(シンボル)の力が失われたことによって、社会の全体性が危機に瀕した状況だとされる。
これはぼくのかんがえだが、東はここで「オタク」という言葉に代表される「趣味的」、「美学的」な現象だけを語っているわけではなくて、政治や倫理を含めた社会全体が、言語の力の凋落にともなって「趣味化」、「美学化」し、林立する「小さな趣味の共同体」にそれぞれ閉じこもってしまったということをいっているのだとおもう。そうだとすると、さまざまな政治活動がつながらず、大規模な運動や行動が困難になってしまったという状況を、たんに政党や組合の弱体化などの外的な管理・統制の結果としてとらえず、こうした内的あるいは言語的な状態の変化によるものととらえることができるのではないか。ぼくはその意味で社会運動の「タコツボ化」というふうにいったわけだ。ただ、前者の要素を軽視してよいということではない。

複数帰属と「使い分け」

ところで、ここで東がおこなっている重要な指摘のひとつは、一人の人間がこれらの共同体のうち、ひとつだけに所属するわけではなくて、同時に複数の共同体に所属しうるということだ。人間は、さまざまな趣味や関心を持つからである。ただし、それらの共同体それぞれにおいて、人は言葉や話題を使い分ける。たとえば、映画のサークルの仲間たちと会っているときに、平和運動の話はなかなかしにくいものだ。また、その逆もあるだろう。どうしても映画好きの友だちとは映画の話をし、平和運動の仲間とは平和や政治について語る、ということになりがちだ。つまり、趣味や思想が通じ合える人たちとしか、そのことを話さないということになってしまいやすい。だから、ある共同体のなかにいるときは、人は趣味や関心をめぐって、なかなか「他者」と出会いにくい構造になっているといえる。
しかも、なお悪いことに、趣味や思想を共有する共同体の成員とだけ、それに関する話題を話し合っているうちに、それ以外の人たち(要するに他者だ)に、そうした話題を向け、伝達したり交流するということが、だんだんおっくうになり、下手になっていく。この弊害は、特に平和や社会運動のサークルにおいて大きいであろう。ひどい場合には、「他者」、つまりそうした話題に関心をもたなかったり、意見を聞き入れない相手が存在するということ自体が、意識できなくなっていく場合もあるようだ。

「解離」は悪いことではないが

だから、一人の人間が複数の共同体に所属しているということは、それだけでは共同体間の交通を保証しないし、むしろ難しくしているとさえいえる。こういうふうになるのは、一人の人間が、趣味や関心の領域に応じて、話題を使い分け、極端にいえば「人格」(というといいすぎだが)まで使い分けてしまえるからだ。
これを心理学の言葉では「解離」と呼ぶそうだが、これが悪いことだというわけにはいかない。さまざまな関心の領域にわたって使う言葉が同一的であるというのは、それはそれで不自然だからだ。
昔は、組合や政治組織が、文学や映画のサークルを運営・指導するということが普通にあった。つまり、政治においても文学や映画においても、使っている言語は基本的に一緒であり、話題や「人格」を器用に使い分けなくても、人は生活のほぼ全領域を統一された人格として生きることが出来たはずだ。だがこれは、言語(理念、イデオロギー)の力が、それを可能にしていたのだ。統一されているというだけで、自由だということではない。
人間は、元来もっと複数的に生きているはずだ。また、言語というものも、もともとそういうものなのだ。「イデオロギーの時代」には、こうした不自然さに蓋をすることができたが、いまはそうはいかなくなったのである。
「解離」は、これまで抑圧されていた人間や言語の複数的なあり方が、解放されて表面に出はじめた徴候だともかんがえられる。東が言っているように、こうした状況をもっとも肯定的に論じてきたのは、社会学者の宮台真司氏だろうが、ぼくも、必ずしも「タコツボ悪玉論」者ではない。

環境管理型権力と解離的状況

だが、「解離」という状況の困った点は、東が指摘するように、それが「他者」との出会いということにはつながらず、逆に「他者」と出会うことを回避する装置として働いているという現実だ。じつはこれが、「タコツボ」的な「林立する小さな共同体」が困ったものである最大の理由なのだ。
「解離」が、イデオロギーの支配に代表される近代的な権力装置からの解放を意味しうるものだとするなら、なぜこんな事態が起きてしまうのだろうか。おそらくここに、「環境管理型権力」の問題があらわれてくるのだ。
林立する小さな共同体と、複数の共同体への個人の帰属という状況の問題点は、それが個人が変容していく可能性(生の可能性)を、イデオロギーとは別の仕方で阻むということだ。ぼくは、この「別の仕方」が、「環境管理型権力」であるのだとおもう。つまり、これらはたんに社会を「分断」しているというだけではなくて、個人の内側を複数的な状態のままにコード化(秩序化)してしまう。ある状態から別の状態への転換が心理的にやすやすと遂行されるため、生の大きなエネルギーが高揚や緊張を伴って動員されるということがなくなってくる。本人は「自由に」振舞っているつもりなのだが、生のエネルギーは巧妙に統御され管理されているのだ。
それは、人間を同一性に縛り付ける(主体化)のではなくて、人格の複数性を是認するという仕方で変容可能性をそぐのだ。
人が、この複数帰属への順応(使い分け)を深めていくことによって、権力が準備した「林立する複数の共同体」という鋳型へと生の可能性が流し込まれていく。この権力のやり方の本質は、複数性を是認し、人を閉鎖的ないくつもの小さな共同体にそれぞれ順応させていくことによって、社会全体をいくつもの小集団に分断するというばかりではなく、他者に対する「想像力」、すなわち他人と自分との「置換可能性」をかんがえる力を鈍化させるというところにあるといえるだろう。

想像力と共感は異なる

ここで「想像力」ということに関して書いておくと、たとえば今日、「富裕な階級には想像力が欠如している」ということが、ブッシュ政権ネオコンや日本の社会の「勝ち組」の人たちに対する非難としてよくいわれる。だがぼくがおもうのは、「想像力の欠如」は、階級や所得や諸々の社会的属性に関係なく、社会全体に起きている現象ではないか、ということだ。
想像力と共感とは別のものである。共感は同一性(もしくは同一化)にかかわるが、想像力はいわば他者との「置換可能性」の意識にかかわる。今日生じているのは、自分の置かれた属性や状況と異なる条件について想像できなくなっているということであって、これはいわば「反権力」や「市民」の側も同様だ。だからこそ、市民運動やさまざまな社会運動は連帯できないのだ(率直なところ、ぼくは「あの人たちには想像力が欠如している」と他人事のように言って済ませられる人たち自身の想像力を疑う)。
たしかに「貧しい人たち」や「虐げられた人たち」は、「豊かな人たち」よりも共感の能力においてすぐれているようにおもうが、それと想像力とは別の話だ。じつは、こうすっぱりわけてかんがえられるものではないが、本質的に違う部分があるということは、押さえておいたほうがいい。
想像力の衰退、つまり他人との「置換可能性」の能力の弱化は、社会全体を覆う問題だろう。そしてこの事柄が、上に述べた「環境管理型権力」の働きと関連していることは、たしかだとおもわれる。


この、もうひとつのタイプの権力に対する感覚の鋭さが、東浩紀という思想家を特徴づけているといえよう。

東は『郵便的不安について』のなかでは、こう問いを立てている。

ところで世界がこうなってきた以上、逆に考えるべきなのは、想像的関係に覆い尽くされたこの状態から、どうやって言葉の力、シンボリックな社会的領域の力を復活させるかということです。

少なくともこの時点において、東は「言葉の力」のなんらかの形での復活を目指していることがわかる。
このために東がとった戦略に関しては、この本を読んでもらうといいし、その成否については、ぼくには論評できない。要は、各共同体をつなぐような言葉の社会的な機能を復活させる必要があるというかんがえが、ここで表明されているということだ*1
これは、彼がこの時期すでに、「環境管理型権力」の存在に対して敏感だったことを示しているだろう。東は、「解離」的な状況が、必ずしも権力からの解放や自由を意味しないことを、はっきりと自覚していたのである。

*1:これは、柄谷行人が85年の『探究Ⅰ』で示した問題意識とは、非常に異なっているようにみえる。柄谷がかんがえたのは、共同体間の交通を実現することではなく、その交通(コミュニケーション、交換)の危うさを明らかにするということだった。だが、想像的な関係としてしか「交通」がありえていないという状況への認識では、両者は共通しているといえるのかもしれない。