「親父」死す―ソ連崩壊

「理念」から「ムード」へ

きのうの文章で、「政党や大きな団体のやり方に学ぶべきだ」と書いたが、実際には難しいだろう。昔は「理念」というものが信じられており、党や大組織が掲げる大きな目的というものに説得力があったから、党の方針を優先させるために、自分たちが属する相対的に小さな集団の要求が達成されなくても、みんな納得した。いや、納得はしなかったのだろうが、大きな目的が達成されたらきっと自分たちの要求も実現されることになる、と自分たちに言い聞かせて当面の連帯は可能だったのだろう。上層部だけが甘い汁を吸ったり、「理念」とかイデオロギーのために切実な小さな願いや心情が踏みにじられたり、悪い面はたくさんあっただろうが、とにかく今とは全然違う状況だ。
今は、自分たちが直接当事者である事柄以外で、人々が関心を持ち合い、協力するということが、以前よりいっそう難しくなっている。「タコツボ化」といわれる現象で、テクノロジーとか社会全体の変容が関係しているのだろう。
政党が機能しにくくなっているという状況は、自民党なども同じだろう。なんでも歯医者さんの団体だとか、郵便局長さんの団体だとか、いろんな支持団体があり、それらを単純に足し算することで選挙を戦えた。いまは、大きな目的に向かって、この小さな集団を足し算するということが成り立たない。それでは困るから、自民党や資本家たちは、「ムード」というものを代わりに見つけてきた。「理念」の代わりに「ムード」で、というわけだ。これが概ね成功しているようにみえる。

ソ連崩壊と「理念」の死

現代の社会における「理念」の失効ということは、リオタールとか東浩紀とか、いろんな哲学者や思想家が、かなり以前から論じてきたことだ。それらは、みなたいへん示唆に富んだ意見だ。
だが、もう少し身近なところでかんがえてみよう。
「理念」というと抽象的なことのようだが、ぼくが今おもうのは、特に左翼の人たちにとっては、ちょっと前までは具体化された「理念」というものが実在していたということだ。それは他でもない、ソビエト連邦の存在である。
ソ連が崩壊するまでは、社会を変革しようとする多くの人たちの心のなかで、「理念」はまだかろうじて生きていたのだとおもう。
崩壊する直前のソ連が、経済も完全に駄目になっているし、軍事的にもアメリカとの差は開く一方だし、なにより「社会主義の理想」などとは程遠く、ソルジェニーチンやサハロフのような人たちを弾圧するひどい国だということは、みんな知っていて、左翼の人たちもほとんどが批判していた。だいたい、スターリン批判や中ソ対立以後は、政党に属しているか否かを問わず、ソ連を批判しない左翼の人は、日本にはほとんどいないのではないかという感じだった。
それでも、だ。
どんなに口では批判していても、自分たちがいま信じている理想を掲げて、かつて打ち立てられた国が現実に存在しているということが、多くの左翼の人たちの心情をどこかで支えているということは、あったのではないだろうか。また、この国が実際にはどんなにひどい国だとしても、この資本主義の世界のなかにそういう国が現実に存在することが、自分たちが目指す「本物の変革」をどこか保証してくれる、という気持ちがあったとおもう。
これはいいことではないかもしれないが、多くの人のなかにあったのではないか。

だから、ソ連が崩壊したときに、ソ連を批判していた「民主的」な左翼の人たちも、総崩れになってしまったのだ。
「父の死」とは、まさにこれであろう。
「民主的」な左翼の人たちがソ連を批判できたのは、ソ連という「父親」が健在だったからだ。いや、健在ではなく、もう本当は死にかけていて、みんなそれは分かってたはずだが、ここがまた不思議なところで、人間というのは相手を「もう死んだも同然だ」とかんがえているときと、本当に死んでしまったときとは、まったく違うのだろう。
本当に死んでしまったとき、つまり現実化された「理念」が本当に失われたときに、一気に崩れ落ちたのだ。観念のレベルのことならごまかしがきくが、現実に起こった喪失だから、抗えなかった。
たとえていうと、ソ連というのは、日本の「民主的」な左翼の人たちにとっては、稼ぎもないのに威張りちらし、飲んだくれて妻子に暴力を振るう、とんでもない親父のような存在だった。息子たちはこの父親を批判しつづけたが、じつは、批判することが息子たちの価値を保証しているところがあり、父親の存在がなくなってしまうと、息子たちは自分の存在を見失ってしまった。結局、この息子たちは「父」という像との関係においてしか、自分を確立できていなかったのだ。
もちろん、もっと従順な息子たちにとっても、事情は基本的に同じだ。「父」という実在が失われると、その幻像も消失する。実在が「理念」を保証していたということで、やはり実在を越えるような本物の「理念」を作り出すことができなかったということだろうか。

「実体」なしでやっていく二つの方法?

それはそうだろうが、なんらかの実在に保証されていないような「理念」など、存在するのだろうか。それは、政党や大きな組合といった「実体」が力を失ったときに、それに代わるような連帯の方法がありうるのか、という問いかけにつながる。
ドゥルーズ=ガタリは、「器官なき身体」ということを言ったが、これは運動論としては「組織をつくらずにつながりあおう」という思想だといっていい。政党や組合などの「実体」による連帯は、国家と同じ図式になるから駄目だというわけだ。
でもそうなると、「連帯」できる人の数がすごく限られてくる。「組織」という異物を接木しないと、つまりなんらかの「理念」によって結集するということをしないと、大規模な連帯ということは無理だろう。数の大小というだけのことではなく、イデオロギーで固まった大組織の害悪とは別種の、閉鎖的な性格をもつ小集団ばかりが並立して互いに無関心か反目を投げ合う、という状況になるのが問題だ。
ところが、「組織」をつくろうにも、もう「理念」にかつてのような力はない。だから、だれも「組織」のためになんてことはかんがえない。

ここで、二つの考え方ができるだろう。
ひとつは、大きな「実体」に頼らないような、つまりはイデオロギーではないような、別種の「理念」というものをつくりだすことだ。これによって柔軟な「組織」、もう組織とは呼べないような連帯のあり方が、可能になるかもしれない。目的による連合、少し前に「パーシャル連合」という言葉が流行ったが、そんな感じの非固定的な連帯だ。これなら、さまざまな属性や立場を有するいくつもの集団を結集でき、しかも「組織」の弊害は生じにくい。
だが、これにも問題がある。そもそも、どうやってみんなを「その気」にさせるかだ。説得するしかないわけだが、その場合の「言葉」というものに昔のような力があるかだ。みんな論理(これも、「理念」の仲間だ)ではなく、情緒やムードで動くようになっているので、「タコツボ」から引っ張り出すのは簡単ではないだろう。
もうひとつの考え方は、資本や自民党がやっているように、「理念」だの「論理」だのには見切りをつけて、「ムード」で行くということだ。「環境管理型権力」という概念がこれに近いだろう。今のところ、このほうが効力を見せている。これは、ずいぶんひどいやり方のようだし、だいいち権力や金のない側がまねるわけにもいかない方法だが、このほうがうまく行っているという事実は、軽視できないとおもう。