『僕の叔父さん 網野善彦』

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

を読んだ。
最近の中沢の著作はまったく読んでいないのだが、昔熱中して読んだ時期があり、とくに『蜜の流れる博士』という変わった書名の本は傑作だとおもった。この著者は、10年前のあの事件のときには、たいへんな思いをされただろうが、学者としてそれだけ現実にコミットしていたことの証明でもあり、あの出来事から得たものも大きかったのではないかと推察する。
本書『僕の叔父さん 網野善彦』は、作家の高橋源一郎のサイトで絶賛されていたもので、興味をもち読んだ。たしかに、この本には「網野史学」と呼ばれるものの中沢から見た核心の部分が、非常に分かりやすく書かれていて、読みやすく面白い。
また、親戚であり、人間的にも学者同士としても特別な信頼と共感の関係(中沢は、「叔父―甥」の間に結ばれるべき「冗談関係」という人類学の概念をあてはめている)でむすばれていた網野に対しての「追悼の書」としても、感動的な内容となっている。
さらに、中沢自身やその父中沢厚をはじめとする中沢家の人たちとの交流のなかで、網野の歴史学と思想がいかに育まれていったか、逆に中沢新一自身の学問と思想が、人間網野との交流に依拠するところがいかに大きかったかが、生き生きとした描写を通じて伝わってくる内容で、是非多くの方に一読をすすめたい。
さて、これだけ誉めておいてなんだが、内容に関して少し言いたいことがある。これは、本の評価というよりも、中沢の思想と、中沢によって語られた網野の歴史観(ぼくは、この人の本をほとんど読んでないのではっきり言えないのだが)に対するぼくの違和感というべきかもしれない。
だから、本全体の思想についての感想を書くよりも、問題点がはっきりあらわれている一節に焦点を絞って考えてみることにしたい。
             

二つの「民衆」概念

第一章の終わりのところで、中沢は網野史学における「民衆」像が、それまでの「民衆史観的な歴史学」におけるそれと決定的に異なるものであることを強調している。

実証主義的な歴史学の中で描かれてきた「民衆」は、こう言ってよければ、近代人としての人間の「底」の抜けていない、ひとつの閉じた観念なのである。「底」が抜けていないことによって、それは近代的に理解された権力と、相対的に同じ地平の中で対立しあう概念となることができる。しかし、そういう「民衆」の中からは親鸞は生まれてこられないのである。(中略)網野善彦が『蒙古襲来』に展開した歴史記述の出発点にすえた「民衆」は、ひとつの概念としてそれとは違う構造をしている。この「民衆」はアジア的生産様式の向こう側に広がる「人類の原始」にまで根を下ろしたものとして、国家の意識と結合した歴史記述そのものの外に向かって、自分の「底」を抜いてしまった概念なのである。


これだけを引用しても分かりにくいかとおもうが、要するに実証主義的な「民衆史観的な歴史学」というものは、「民衆」を階級闘争弁証法的な一方の項としてしかとらえられていない。それは、この歴史学がじつは「国家の意識と結合した歴史記述」しかできない歴史学であることを示している。これに対し網野善彦の「民衆」という概念は、より根源的な、中沢によれば「人類の原始」あるいは「トランセンデンタル(超越的)な領域」につながるものであり、近代的な思考の枠組みを越えた概念である。それは稲作農業民の共同体という「アジア的生産様式」(マルクス)の一形態としてとらえられた日本の「民衆」像を打ち崩して、狩猟民や「非農業民」の系譜においてとらえられる「人類普遍的」(中沢)な「民衆」像を日本史のなかにみいだそうとした網野史学の試みに具体化している。
中沢のここでの主張は、そういうことだ。ここで、弁証法的な概念として「民衆」をとらえる歴史学のあり方が、「国家の意識と結合した歴史記述」でしかないという論法は、ぼくが先に紹介した『千のプラトー』におけるドゥルーズ=ガタリの「国家装置=思考の内部性形式」という等式に重なるものであることに注意してほしい。

「党派=国家=近代」?

ところで、ここで「実証主義的な歴史学」、「民衆史観的な歴史学」と書かれているのは、端的に言えば戦後日本のマルクス主義史学のことであり、もっとはっきりいえば共産党が公認する党派的な歴史学のことであろう。
実際、この本は、上述したように、中沢本人と網野との交流ばかりでなく、熱心な共産党員で後に除名される中沢新一の父親や、「党員一家」ともいうべきその一族の人々と、網野善彦との思想的・人間的な交流が、網野史学にいかに大きな影響を与えたかを生き生きと描き出しているところに、読み物としての最大の魅力がある。あえて言ってしまえばこの本は、「コミュニストの息子」である中沢が、「政治」やイデオロギーとは別なところに何とか「コミュニズムの可能性」を見出そうとして書かれた本だとも読める。
中沢はここでは、党派的な歴史学によって描かれた「民衆」の概念とは異なる、より普遍的で「大地的」(中沢)な概念として、網野の「民衆」の概念を高く評価しているわけだ。これは、「コミュニズム」という言葉をもはや使えるかどうかわからないが、「近代」や「国家」を否定するという意味では、真に「変革的」あるいは「左翼的」な思想として、網野史観を評価する、という態度であろう。
つまり、「党派(共産党)=国家=近代」というくくりになっており、それを乗り越えるものとして網野の歴史学、「民衆」像があるということになる。そして、そうした非党派的・非イデオロギー的な「変革」こそが真の変革だ、という主張になっている。
ぼくは、このあたりに疑問を持つ。

「党派への不信」

共産党」といっても、日本の共産党を語る場合、朝鮮戦争終結に関係するいわゆる「六全協」における「議会主義」への転換が、決定的に重要だろう。網野善彦が別のところで戦後のマルクス主義史学に関して行なっている述懐などを読んでも、この出来事の重大さは疑う余地がない。戦後の日本の左翼運動、いや戦後の社会・文化の推移全体をかんがえるときに、このことをはずすわけにはいかない。
だが、ここではそちらには踏み込まず、網野史学を信奉した中沢たちの世代に対する疑問の方を書く。
中沢は上記に引用した文章の前後で、網野の「民衆」概念に似通ったものとして、吉本隆明の「アフリカ的段階」をあげている。中沢によれば、「アフリカ的段階」も、「アジア的生産様式」以前に存在した人類普遍的な生の領域の概念であり、近代的な歴史意識の外に立つ思考の産物だということになる。
吉本も、網野と同様に、中沢たち「68年の革命」、日本では「全共闘」とか「70年安保」として語られる世界的な出来事を学生時代に経験した世代の人たちから、絶大な支持を受けた文化人だ。詩人・思想家である吉本においても、やはり先述の「六全協」が決定的な影を落としているわけだが、それは一口に言うと「党派への不信」になってあらわれているといえる。理念(イデオロギー)を掲げて組織された政党・政治団体よりも、より小規模でなんらかの「実感」を共有できる集団だけを信頼するということであるが、これが最終的には政治の理念よりも生活者(大衆)の「実感」を信頼するという小林秀雄的なところに帰結していき、非政治的な消費大衆社会を全肯定する言説になっていったことは、きのうも少し書いた。
吉本・網野に共通するこの態度が、中沢たちの世代に支持され、その思想と行動を決定した部分がある。

ポストモダン思想とは、共産党批判だ

また、中沢はここで、ドゥルーズ=ガタリネグリの思想と、網野の「民衆」観との相似についても言及している。たしかに、移動する非農業民(冶金術師の集団など)に対するきわめて高い評価など、『千のプラトー』でDGが書いていることと、網野の言っていることとの間には、共通点が多いようだ。
それは、網野や吉本の思想も、ドゥルーズ=ガタリの思想も、ともに「68年の思想」だからだ。つまり、ポストモダン(ポスト近代)の思想だということだが、ここでいうモダン(近代)というのは、「運動」に関していうとじつは「共産党」のことなのだ。特にフランスと日本においては、議会主義の立場をとる共産党と、「68年の革命」の主体になった学生運動家たちの対立がすさまじかった。DGやフーコーにしろ、吉本や網野にしろ、ポストモダンの思想というのは、結局は「共産党」に対抗し乗り越える左翼的政治思想ということであり、もう少し広くいうと、党派や組織に回収されない運動のあり方を見つけ出そうという話だ。DGの言っている「ミクロ政治学」という有名な主張は、じつはそういうものである。
中沢たち「68年の世代」の人たちは、日本の中では網野や吉本たちの思想のなかに、その可能性を見いだそうとしたのである。

「組織の思想」はなぜ重要か

だがぼくはまず、この方向性、端的に言うと「ミクロ政治学」の可能性に疑問を持つ。それは本当に、国家の外にあるものだろうか?「ミクロ政治学」の試みがもたらしたものは、たんに支配的な権力(国家・資本)の強化でしかなかったのではないか、特に日本においては。
重要な問題は、ここで「党派」として批判的にイメージされているものが、きわめて限定された歴史的なもの(つまり、議会主義政党としての共産党)でしかない、ということだろう。この批判においては、「組織」というものの可能性が十分にかんがえられていないとおもう。結局、「組織をつくることは、国家と同形になることだから悪いことだ」ということになり、できるだけ少数で固まっている方が反権力的だという、管理する側からみればもってこいの話になる。実際、日本の左翼運動は、68年以後、急速に細分化していったが、これはむしろ活動家たちがそう望んだ結果でもある。「思想」は、国家権力のための装置として見事に機能したのだ。
硬直した党派性を批判するのはいいことだが、より多くの人たちが力を合わせるための「組織」についてかんがえることを放棄すれば、支配・管理する側が喜ぶだけだ。また、「当事者団体」の枠を越えた大きなところで、それぞれの立場や属性を越えて連帯するということがなければ、運動は閉鎖的となるほかないが、戦後の日本では「政党」がそのために果たしてきた役割は大きい。
「政党」の存在に意義があるのは、それが各自の属性や状況をこえる、より広い場所での人々の協力と連帯に道を開くという点である。政党が追及してきた「組織」の論理が重要なのは、この点だ。それはたんに「国家」と同形なのではなく、他者(「実感」を共有できない人々)の存在を前提とした社会変革の方法論という一面をもつ。ぼくの考えでは、「国家」を真に突破する解放の可能性は、この論理なしにはありえない。「68年の思想」は、これを忌避することによって、見事に国家の思惑に呑み込まれたのだ。
イデオロギー(理念)が、人々を集合させるものとしては力を持ちがたくなった現在、「政党」にかつてのような役割を期待するのは無理だろう。だが、その存在と方法のいい面は、いまこそ見直され、学ばれる必要があるとおもう。

「歴史は繰り返す」?

ここで、もう一つ大事な論点が浮かび上がる。たぶんフランスとは違って、日本の社会には「政党」のような存在がなくなった場合、人々がそれぞれの立場や属性を越えて、社会変革というひとつの目標に向かって力を合わせるための社会的な土壌のようなものがないに等しいということだ。これを分析しだすとたいへんな議論になるとおもうが、そのうち徐々にかんがえていこう。この状態で、一概に「政党」や「政治団体」の存在を否定してしまえば、どうなるか。一番それを熟知していたのは、たぶん「管理する側」だった。
「68年の思想」を信奉した中沢たちの世代は、「人類普遍的」なものを重視するあまり、この日本社会のローカルな性格への注意を怠ったとおもう。
だが、これは必ずしも、社会学的な問題意識が欠けていたというだけの話ではない。吉本や網野がどういう政治的・歴史的な背景のなかであのような学問や思想にたどり着いたのかという現実的な文脈を、中沢たちの世代はよくかんがえなかったのではないかとおもうのだ。
それは端的にいえば、朝鮮戦争と「六全協」の関係ということだが、この地域的な現代史に対する感覚の欠如が、「68年の世代」にポストモダンの思想と吉本・網野の思想を同一視させ、高度消費社会という「普遍的」な現象のなかでの日本の左翼勢力の崩壊を加速させたというのが、80年代以後の状況だったのではないだろうか。
するとこれは、「六全協」のときに起こった地域(近隣)的なもの、歴史的なものの隠蔽・忘却が、繰り返されたということではないか?まさに「歴史は繰り返した」というべきか。