『新編 現代の君主』

新編 現代の君主 (ちくま学芸文庫)

新編 現代の君主 (ちくま学芸文庫)


イタリア人マルクス主義者、アントニオ・グラムシは、ムッソリーニ政権下で投獄され1937年に亡くなったが、獄中で膨大なノートを残した。それらは、死後に編集されて出版され、日本を含む世界中のマルクス主義に大きな影響を与えたとされる。
この本も、そのノートの一部を編んだものである。


一読してよく分かるのは、ファシズムの猛威に直面した獄中のグラムシが、「大衆」をどう捉え、それにいかに働きかけるべきかということを、左翼の立場から考えぬいたということである。
その姿勢は、次のような一節からもうかがえると思う。

注四。 新しい文化を創造するということは個人的に「独創的な」発見をすることを意味しているだけではない。それはまた、そしてとりわけ、すでに発見されている真理を批判的に普及させること、それらをいわば「社会化」すること、したがって、それらを枢要な活動のための基礎、知的ならびに道徳的な配置と秩序の要素になるようにすることをも意味している。一群の人間大衆が現に目の前にある現実を首尾一貫した統一的なしかたで思考するようになるというのは、ひとりの哲学的「天才」によってなされた、小さな知的集団の世襲財産にとどまるような新しい真理の発見よりも、はるかに重要かつ「独創的な」「哲学的」事実である。(p042〜043)

表題の「現代の君主」というのは、グラムシがきわめて高く評価したマキャヴェリの「君主論」からとられたものだが、彼がそれを高く買う理由の一つも、それが読み手の想像力に働きかけて行動へと向かわせることを重視した書物だったことだ。
だが、グラムシは決して、ファシストのように「大衆」を操作・扇動したり、それに迎合したりしようとするのではない。これが、もっとも大事なことだろう。

実践の哲学(マルクス主義)の立場は、このカトリック教会の立場とは正反対である。実践の哲学は「素朴な人びと」を常識というかれらの原始的な哲学のなかにとどめておくことをめざすのではなく、逆にかれらを高次の生活観にまでみちびいていくことをめざす。実践の哲学が知識人と素朴な人びととの接触の必要を主張するとすれば、それは学問的活動を制限して大衆の低いレベルにおいて統一を保持するためではなく、まさしく、わずかの知識人集団だけでなく大衆の知的進歩を政治的に可能にするようなひとつの知的‐道徳的なブロックを構築するためである。(p052〜053)

ここから、「指導」という考え方が出てくる。これは、マルクス主義、あるいはレーニン主義の基本的な立場ということになるだろう。
僕は「現代の君主」という題を見た時に、「現代の社会では、君主にあたるのは大衆だ」といった、大衆社会論的な主張かと早合点したのだが、よく読むと、グラムシのいう「現代の君主」とは「党」のことなのである。

現代の君主、神話としての君主は、実在の人物、具体的な個人ではありえない。それはひとつの有機体でのみありうる。それはひとつの複合的な社会的要素であって、それまで行動のうちにあらわれて部分ごとに自己を主張していた集合的意志がひとつのまとまった具体的な形姿をとりはじめたものなのである。この有機体は、歴史の発展によってすでにあたえられている。政党がそれである。(p074)

こうしたグラムシの考えの背景には、「大衆が主役」という口当たりのいい表現が、じつはファシストたちの(あるいは、その背後に居る者たちの)常套句でもあるという事実があったのではないだろうか。
「見物(観客)は敵」とは、花田清輝の名エッセイ『俳優修業』に出てくる言葉だが、グラムシの思想にも、大衆を重視するがゆえに、大衆との緊張感を保とうとする姿勢を感じる。


またグラムシは、マルクス主義者の立場から、ファシズムばかりでなく、理論的サンディカリズム社会民主主義社会改良主義)にも鋭い批判を加える。後者二者の共通項は、経済的次元だけを重視して政治的闘争を軽視する「経済主義」の考え方であるという。
社会変動の原因は、経済的理由よりも、心情を含めた政治的次元にこそ見出されるべきだという主張は、「ファシズム(非合理性)の時代」を体験したグラムシの経験則のようなものだったかもしれない。

いずれにせよ、諸勢力の均衡の破壊は、その均衡を破壊することに関心があり、また実際にそれを破壊した社会集団の窮乏化ということが直接的、機械的原因となって生じたのではないのであって、直接の経済的世界よりも高次の抗争の場面、階級としての「威信」(将来の経済的利益)と関連し、独立、自立、権力の感情の激化と関連する抗争の場面において生じているのである。(p146)

もちろん、この抗争(ファシズムの台頭)の背後には国際的な思惑が働いていることも忘れてはならないが。

これら一連の事実からは、いわゆる「外国の手先の党」というのは、しばしば、巷間そういわれている党(共産党)ではなくて、ほかでもないもっとも民族主義的な党がそうであるという結論に到達する。民族主義的な党は、現実には、自国の生命力を代表するというよりも、覇権をにぎっている諸国民またはそれらの一グループに自国が経済的に従属し隷従しているという事実を代表しているのである。(p131〜132)


また興味深いのは、運動の「自然発生的な」傾向を軽視してはならないという、グラムシの主張だ。
これも、「ファシズムの時代」の体験から出てきたものだろう。

いわゆる「自然発生的な」運動をなおざりにし、さらに悪いことには軽蔑すると、すなわち、それらに意識的指導をあたえて、もっと高い次元にまで向上させ、政治のなかに組みいれるのを放棄すると、しばしば、きわめて深刻かつ重大な結果をもたらすことがある。(p254)

「自然発生的な」ものの重視と、そこへの介入と指導、それがやはりグラムシの中心テーマだったと考えられる。
ここで、彼は「国家的精神」という概念を、肯定的な意味で用いる。それは、「自然発生的」に生じた運動が、持続的な集団的意志に変っていく際に要請される要素だといえる。
この指摘は重要だと思うと同時に、それが「国家的精神」と名指されるところに、はやり危ういものを感じてしまう。

しかし、ここで立てられるのは、およそあらゆる真剣な運動、すなわち、もろもろの個人主義の―それぞれの正当化の度合いがどうであれ―恣意的な表現ではないような運動のなかには、なにか「国家的精神」とよばれているものに似たものが存在するのではないか、という問題である。いずれにせよ、「国家的精神」は、過去にむかってであれ、いいかえるならば、伝統にむかってであれ、また未来にむかってであれ、「連続性」を前提にしている。(中略)この過程にたいする責任意識、この過程の行為者であるという責任意識、(中略)諸力と連帯しているという責任意識、これがまさしく、いくつかの場合に「国家的精神」とよばれているものなのだ。(p246)


最後に、やはりファシズム分析のことに戻るが、ファッショ的な政治体制と「世論」形成や「選挙」との関係を論じた以下のようなパラグラフを読むと、やはりグラムシの時代と今日とは酷似していると、あらためて思わざるをえない。

国家は、あまり人気のない行動を開始しようとするときには、あらかじめ、それに適した世論をつくりだす。すなわち、倫理的社会の一定の要素を組織し集中する。(中略)したがって、あるひとつの勢力だけが国民的政治的な意見、ひいては意志の原型をつくりあげ、自分とは意見を異にする者たちを個々ばらばらな微粒子にしてしまうことによって、新聞、政党、議会など、世論の諸機関を独占しようとする闘争が存在することになる。(p332〜333)

最近、明確な綱領を中心に明確な立場のもとに組織された諸政党による世論の正常な操縦を攪乱しようとする要素が出現しているが、それらのなかでも、第一に挙げられるべきものに、〔スキャンダルを売り物にした〕黄色新聞と(それが普及しているところでは)ラジオがある。これらは、不意にパニックや作為的な熱狂をひきおこす手段となりうる。そして、たとえば選挙のときに一定の目的を達成するのを可能にするのである。これらのことはすべて、三年か四年か五年ごとに一度行使される人民主権の性格と関連している。ある決められた日にイデオロギー的に(あるいはむしろ情動的に)優位を占めさえすれば、たとえ、その一時の情動が過ぎ去って、選挙人大衆がかれらの法律上の表現から分離することがあっても(法律上の国民と現実の国民とは等しくはないのだ)、三年か四年か五年のあいだ支配することになる多数派を獲得するには十分なのである。(p333〜334)