「(通称)反日デモ」について

日曜日に、京都で行われた「(通称)反日デモ」に参加した。



ファシズム化、軍事国家への道をひた走っている今の日本において必要なデモというだけでなく、非常に好いデモだったと思う。
それは、参加していて、自分のなかに抑圧を感じなかったからだ。何か一番大事なところで無理をして、言いたくないことを言ったり、言いたいことを言わなかったりということがない。
むしろ、「反日」という、いま最も否定的な意味を押しつけ貶められている言葉に向き合って、そこに込められているものを通して、一番言わなければいけないことを、人びとに向って(「過激」に思われようとも)訴え続ける。
これは、滅多にない体験だったが、それが当たり前であるようにしていかけなければ、今の世の中の流れは変えられない、とも思った。


だがネットなどを見ると、このデモが何かネガティブな行動であるかのような印象で語られているのを目にする。
たしかに今では(司馬遼太郎ぐらいからではないかと思うが)「反日」という言葉自体に、非常にネガティブな意味づけがなされてしまっていて、右派や反動的な人たちに、それがうまく利用されてるという現実はある。僕は、それを変えていかなければならないと思うのだが、ここで問題にしたいのは、そのことではなく、このデモが大阪での「仲良くしようぜパレード」(仲パレ)と同日・同時刻に組まれたことを理由として、ネガティブなものであるという批判がされているという点だ。
ここには大きな誤解があると思うので、僕自身の感じたことに基づいて、それを述べてみたい。


デモを呼びかけた若い友人から、このデモの話を聞いた時、僕は最初、それが、去年僕も参加した「仲パレ」と同じ日であることに、一瞬は戸惑ったが、すぐに非常に明るい気分になったことを覚えている。
それは、これまでカウンターや仲パレを批判する、左翼の人たちの意見を見ていて、その意見は正しいと思うが、では自分たちは具体的に何をしていくのかという、前向きなもの、構築的なものが、何もないという気がしていたからだ。批判は正しいが、何かを作り出していこうという意志が、僕には感じられなかった。そこに不満があった。
それが、このデモの話を聞いた時、対立者への批判や否定に留まるのでなく、ともかく自分たちが正しいと思うものを打ち出して、それを強く明確に訴えていく。そういう姿勢に初めて接することが出来たと感じた。これは、「対案」云々の話ではない。批判にとどまらない、具体的な行動による、反対の明確化であり、矛盾に満ちた現実の可視化ということだ。
仲パレについては、関わっている人たちの意見や発言の中に、とても同意できないものを感じてきた。それでも、去年は、そこに一定の意義を感じたので参加したが、歩きながらも、また特に参加して以後の成りゆきを見ていると、抑圧感が強まるばかりで、今年の参加のことを考えると、とても気が重かった。
それでも参加することを考えていたのは、それ以外の具体的な道が何も示されていないと感じてたからだ。仲パレへの参加は、(僕の考えでは)日本社会のファシズム化という意味で悪い結果をもたらすものかも知れないが、それでも、何もしないことによってもたらされる「よりましな結果」の方を選ぶ気にはなれなかったのだ。
反日デモ」の提案は、そういう抑圧感を一掃する光を、感じさせるものだった。そして、その光によって、自分が解放されるように感じ、力づけられた思いがしたのである。
これは、他者への批判にとどまらない、具体的な対立の形が作り出され、示されたということであって、何かを作り出すという意味で、ポジティブな行為だと思う。そして、それは「反日」という語にも示されているように、現実の世界の矛盾と向き合って、そうした世界を根底から変えていこうという意志に基づいている。このことが大事なのである。
つまりそれは少なくとも、反対のための反対や、破壊の気分の表れといったものではない。
それはむしろ、人間的な社会を形成していく真の始まりになるものだと思う。
このことを強調しておきたい。


そのことに比べると、このデモが仲パレと同日同時刻に組まれたということには、僕にとっては二次的な重要性しかなかった。
もちろん、実際には、それが同日同時刻に組まれたということには、大きな意味があるのかもしれないが、ここで言いたいのは、そういうことではない。僕にとっては、もしこの二つのデモの日時がずれていたとしても、両方に参加するという選択肢は、もはやなかったということだ。
僕は、ただ良いと思える方だけを選択し、自分には良いと思えない方、少なくとも自分が一番大事なところだと考える点で自己抑圧的な態度をとらざるをえない方を選択しない、という態度をとればよいだけであった。
そして僕は、そのような選択をあえて(出来る人から)していくということが、現在のようなファシズム化していく社会を生きる上では、連帯の大事な前提になるのではないかと思っている。
差異を抑圧せず、現実の矛盾や対立に目をふさがないことを前提として、共に生き抜いていくということ、それこそが、反ファシズムの道筋というものではないだろうか。


この後、このデモに寄せられている幾つかの批判について、考えを述べるつもりだったが、はっきり言えること、一番言うべきだと思っていたことは、以上で尽きていると思うので、ここではこれだけにする。