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和辻の思想の独自性に対する著者の肯定的な眼差しは、たとえば次のような箇所(和辻の仏教論を紹介する)箇所に示されていると思う。
とはいえ、感覚の次元に降りたって経験の襞に内在するところから、経験そのものの常識的解釈を解体して、経験自体のひろがりとその彩りとを回復しようとする手つづきは、『倫理学』へと流れこむ、和辻の基本的な哲学的方法ともなることだろう。(p94)
また本書では、和辻の思想が、たとえばカント哲学についても、また原始仏教に関しても、同時代における第一級の理解を示したものだったことが説明されていく。
だがとりわけ印象的なのは、和辻が、同時代の日本の代表的な思想家西田幾多郎と同じく、マルクスの思想から甚大な影響を受け、またその思想に対する高度な理解を持っていたことが語られている点だ。
たとえば、こう書かれる。
和辻は、マルクスのいう存在が、その実質においては「関係」であると見て、内容的には、みずからのいう「間柄」と一致するものであると考えている。さらには、マルクスの説く自然(わけても「歴史化された自然」)のなかに、じぶんが考える「風土」そのものをみとめていたわけである。これは、一九三四年段階でもっとも卓越したマルクス理解のひとつにほかならない。(p121)
その受容の真摯さ・正確さと、卓越性を認めたうえで、和辻の思想が持つ限界、またその変容といったものがたどられていく。
「間柄」概念は、和辻の倫理学体系の、原理論的なポテンシャルにおいては、第一義的には「関係」概念、「生成」概念であり、不断の発生と抹消を見つもった、動的な概念装置であった。(中略)和辻倫理学体系のなかで、とはいえ関係はやがて実体となり、生成は存在となる。(p128)
これは、冒頭に引いた文章で著者が述べていた、『経験自体のひろがりとその彩り』を重視し、そこに根ざそうとする和辻の思想の、ネガティブな変容を示唆するものではないだろうか。
そうした和辻の変容の大きな理由が、とりわけ彼に甚大な影響を与えたと考えられるマルクスとの対比において検討されるのである。
それはとりわけ、次の論点に集約されるものだ。
マルクスには存在して、和辻に欠けていたのは、資本制的生産関係をめぐる細密な分析ばかりではない。欠落しているのは、国家の終焉という醒めてみられた夢であった。和辻はむしろ国家に多大な課題を負わせるにいたったからである。(p166)
国家を人倫的組織の人倫的組織と考える和辻の歴史的想像力は、国家を超える共同体を構想することをなかば禁じた。和辻の倫理学は、以下、基本的には、国土のさまざまとして風土をあらためて分類して、国家の歴史として人間存在の歴史を語りだしてゆくことになるだろう。(p187)
著者の見方とまったく重なるかどうか分からないが、国家の存在を直視しえていないという点では、和辻の思想的な限界は(恐らく、その可能性と同様に)、今も私たち自身の限界としてあるのだろうと思う。
続きは、本で。