続・NHKの問題に触れて

本筋と脚注

この話が中途半端になっていたので、続きを書いておきたい。
ご存知の方も多いとおもうが、今回問題になった番組がなんらかの政治的圧力のために改変されて放送されたのではないかということは、この番組が放送された2001年当時から議論・告発されており、現在も法廷での争いが続けられている。番組に出演した東京大学高橋哲哉氏も、この問題についてことあるごとに発言されてきたとおもう。
事情を知らない多くの人は、「なんで今頃こんな古い話を蒸し返すのか」と不審をもつかもしれないが、ぼくからみると、むしろ今まで注目されてこなかったことの方がおかしいのだ。
また、自民党安倍晋三らの発言も、その後二転、三転しているが、そちらを指弾する声はあまり聞かれない。
朝日の報道姿勢がどうだったかということや、告発した人にどんな事情があったかということは、付随的な問題だろう。本で言えば、脚注の内容だ。脚注ばかり読んでいるうちに、本筋がなんだったかが忘れられ、誰かに都合のいいことになっているのだが、マスコミも一般の人たちも、あまりそれに疑問をもたない。むしろ、それを望んでいるようでもある。
これは、世の中に「本筋」があるということへの、信頼や期待がなくなっているという現状を表しているのではないか。その現状を、みんな冷ややかに容認している。「本筋などありはしないよ。あるとおもったら、やっていられない」という呟きが聞こえてきそうだ。
ぼくにはそれが不快であり、怖い。

「実感」という国家的装置

ところで、ぼくがおもうのは、いまの権力や資本のやり方は、「本筋」というもの、いいかえれば「公平中立」とか「公正さ」とか「正義」といった理念が信じられなくなった、人々の心の変化をたくみに利用しているということだ。
大きな権力が行使されてものごとが歪められていくという現状(そのもっとも大きな例はイラクのことだが)を、人々が冷笑をもって容認するという背景には、理念に対する信頼の喪失と、「実感」への信仰の高まりということがある。権力や資本による操作は、この「実感」に対して働きかけ、それへの信仰を強めようとするのだ。
理念を信じて権力とたたかうよりも、生活の「実感」にしたがうということは、大きな政治的敗北が明らかになるたびに、日本の知識人や芸術家がとってきた言説のスタイルだった。自由民権運動の敗北と自然主義文学の登場というところまでさかのぼらなくても、「転向」の時代の後の小林秀雄がそうだったし、朝鮮戦争が終わったあとの吉本隆明が、さらに60年安保の敗北を経て「自立的思想」とか「大衆の原像」とかを語るようになっていくのも*1、結局、知識人が理念を放棄して生活の「実感」へと「回帰」してくというスタイルで、今もこれが繰り返されているというだけのことだともいえる。それは、人々が共同体に閉じこもり、政治や国際的な状況といった「外部」を考えなくなることを是認するための思想であり、つまり国家的な装置なのだ。

「依存」としての宗教、国家

だが、現在起きている「理念の失効」は、もっと根本的で世界的な現象だろう。その結果は、アメリカにおいてもっとも顕著にあらわれている。「実感」を共有できない共同体の外部の人たちと関係を築くための唯一のツールである「理念」を失った人々は、グローバル化にともなって激変していく社会のなかで、不安にかられて「国家」とか「宗教」とか「共同体」(実感)に逃げ込もうとする。ところが、実際には、もうそれは機能していないことを、みんな内心ではわかっている。そういう大きな枠組みがリアリティ(実感)を持つのは、本当は「理念」という人工的で「実感のない」ものを接木することによってしか可能ではないという、古くからの真実に、実はみんな気づいてしまっている点が、現代の特質なのだ。
だから、現代の「国家主義」や「宗教」は、過去とはじつは別物である。それは、内心の「不安定さ」(不信)を押し殺し、それをかんがえないようにすること、その不安定な場所に触れないようにすることを、絶対最優先の課題とする。そこから、「不安を誘発する他者」(「テロリスト」、「犯罪予備軍」、「不審な外国人」)に対する異常な恐怖心、予防措置的・先制攻撃的な心理が生じている。今日「セキュリティ」が、最大の関心事となる背景には、たんなる警戒心ではなく、押し殺している内面の不安定さが顕在化することへの恐怖心が存在するとかんがえられるのである。

要するにこれは、「信仰」や「熱情」というよりも、(国家や共同体への)「依存」の心理だ。

宗教の問題はともかく、ナショナリズムには、もともとこの「接木」への自覚とその抑圧という要素があったとおもうのだが、現状はもっとねじれている。あるいは、複合的だ。
誰もが口では、「国家はすでに死んでいる」と言うのだが、じつは国家というものは死によってこそ最強となるのかもしれない。ちょうど、キリストの死によってキリスト教が創始されたように。「依存」という意味において、国家は今日の人々にとってほとんど「神」となりつつあるようにもみえる。


どうも頭が冴えないので、後半は漠然とした話になった。
いずれ、もう少し厳密にかんがえて書いてみます。

*1:吉本ら戦後の左派知識人の「共産党批判」、「政治主義批判」には、この意味合いがあるから評価できないのだ。