『オールド・ボーイ』と「強者」の報復

上の文章でナルシズム的な心の状態、ということにふれた。
これに関連して、少しおもうところがあるので書いておきたい。
それは、かんがえる糸口としては、去年の暮れに見た韓国映画オールド・ボーイ*1に関することである。

「復讐の物語」に抗して

この映画については、ぼくは以前にあるメーリングリストに、アメリカ映画『ミスティック・リバー*2と比較して、次のように書いた。(一部省略)

ぼくがいま思っているのは、この映画は主にハリウッドの映画が、特にここ十年か二十年ぐらいの間に世界に広め、定着させてきた「復讐の美学」や「復讐の論理」のようなものに対する強烈なアンチテーゼではないかということです。
「復讐」(報復)ということをテーマにした映画としては、前にここに書いた『ミスティック・リバー』とは対極のようなところにある。『ミスティック・リバー』は、アメリカ的な「復讐の論理」を、その破綻まで含めてまるごと見せてしまっている映画だと思いますが、『オールド・ボーイ』は、回復の出来ないような傷を受けた本人やその家族が、その感情を、「復讐の暴力」という社会一般や国家に回収されやすい仕方でない方法で、どのように引き受けることが出来るのかということ、というよりも、そのことがどれほど困難なのかということを描いた作品だと思う。その困難のなかに、あえて立ちすくむ決意を示した作品、といえばいいのか。
「復讐の暴力」を正当と考えるイデオロギーの中で、「報復(または予防)戦争」とか死刑といった、国家による巨大な暴力が支持されて遂行され、その陰で本当に傷を受けた人たちの感情の方は、国家や社会によって盗み取られたまま、決して癒されることがないというのが、今の世界のあり方でしょう。
そのイデオロギーの拡大に、ハリウッドをはじめとして、映画も大きな役割を果たしてきた。そのことに対する反省や反感が、この映画を作った人たちにはあったのではないかと思います。だから、これはものすごく政治的な映画ですね。

また、『オールド・ボーイ』がすごいのは、主人公に対して残虐な暴力を振るってくる相手を、「理解不能な」存在として設定したところだと思います。これは、非常に現代的な設定だとも思う。ユ・ジテの演じるあの男は、自分では「復讐」といってるけれども、その暴力の残虐さと執拗さは理不尽で観客の側も全く理解できないようなものだ。だから、チェ・ミンシクの演じる主人公にとっては、この相手と「理解しあい」、「許しあう」というような解決の可能性は、初めから閉ざされている。
観客にとっても、「ああ、誰にも事情があるんやなあ」というところに逃げ込んで、受けた衝撃を和らげるという道は閉ざされてる。だから、「すごく辛い」とか「重い」という感想になるんですね。
映画という装置によって、人間の生の感情が、復讐とか表面的な和解といった「物語」のなかに回収されて、国家や資本にとって都合のいいものに変えられてしまうという構造に、この映画は抵抗しようとしている。

では、そういう人間の生の感情を救うために、そうした「物語」でない、別の方法をこの映画が提示できているかは、ぼくには分かりません。
ただ、とりあえず、「物語」に感情を流し込む手前で、この人間の生の感情そのもののなかに踏みとどまる必要があるということを、そのことの圧倒的な困難さと共に、この映画は訴えているのではないか。人間の感情によってのみ、傷つけられた感情を癒す、といえばいいのか。そういう思想を感じます。
主人公が、最終的に復讐よりも愛を選んだというのは、「ハッピー・エンド」ということではなくて、そういう困難さをあえて選び取るという、作り手たちの決意を示す結末だったのではないかと思います。

報復する「強者」

これは、大枠としてはそんなに間違っていないとおもうが、修正したい点がある。
それは、ユ・ジテが演じたエキセントリックな男の残虐で執拗な「復讐」を、「理解不能な」と形容したことだ。これでは、まるでこの男が、ぼくたちにとって他者ででもあるかのようだ。実際には、この男はぼくたち自身の肖像ではないだろうか?
はじめの方で『「復讐の暴力」を正当と考えるイデオロギー』がハリウッドの映画など(もちろん、他の国の映画、ドラマや報道などさまざまな装置があるだろう)によって流布されているのではないかと書いたのだが、その力もあって形成された現代のアメリカや日本(韓国もよく似ているのかもしれない)の人々の心の世界は、復讐や恐怖や嫌悪や憤懣といった直接的な情緒が、理性やもっとなだらかで奥行きのある感情を押しのけ、支配している状態だといえるだろう。それは、これらの社会全体の現状に重なるものだが、こうした心の世界が、ユ・ジテの演じた男によって体現されているとみるべきではないだろうか。
あの男による独りよがりな「復讐」は、「強者」による「弱者」への報復、攻撃と呼べるものだ。社会的な強者が、醸成された不安や憤懣のなかで「幼児化」していくという事態が、たぶん80年代あたりからアメリカでも日本でも急速に進んでいて、ハリウッド映画は、この動きに一役買っているとみることができる。それは、いわゆる「カウボーイの論理」と似ているが、その現代的な変形であって、特異な性格をもっている。

「国家」の変容

ここで「社会的な強者」という言葉の定義はなにかというと、自分が現状の体制のなかで既得権益を得てきたとかんじている人間だろう。この人々は、「弱者」によって、あるいは「外部」によって、自分たちが保持してきた利益や安定(安全)が奪われ脅かされていると感じ、それに対抗しようとして身構え、攻撃を欲望する。だがそれは、「カウボーイの論理」のような、たんにマッチョ的な態度ではなくて、もっと情緒的な、むしろ「幼児的」な反応だ。もちろん、マッチョ的な態度が本当はもともと情緒的なのだろうが、これはそれともまた異なっている。強固な家父長的な体制、自分たち既得権益者の、マジョリティの安定を保証するものが、本当はもう失われてしまっていることを、この人々が内心では自覚しているからだ。その事実を認めたくないという感情が、この人たちを「幼児的」な心理のなかに対抗させているのではないだろうか*3
この、本当は失われてしまっている強固な体制とは、この人たちの自己の拠り所としての国家のあり方だといえるだろう。80年代以後のアメリカや日本では、端的に言えば経済のグローバル化の進行によって、国家のあり方が決定的に変容した。国家が、「国民」や「家父長制」や「年金制度」のような装置を媒介させることなく、直接的に人々の心理と情緒に働きかけ、操作・支配する体制へと移り変わったとみてよいだろう。おそらくこれは、旧来の国家の体制のなかでは「強者」、既得権益者であった人々から、その特権を剥奪してしまうものだ。「強者」たち(これまでそうおもっていた人たち)は、それに脅え不安をかんじ、怒りや攻撃性を、国家を拠り所とする自己の安定を脅かすとおもわれる「弱者」や「外部」に向けるのだ。
この怒りや攻撃性が、決して国家や支配的な権力には向かわない理由は、この人々にとって、それらが決してその失効や凋落を認めたくない存在、自己のマジョリティとしての安定の拠り所だからだ。

権力の現在的な特質

ユ・ジテが演じた男の倒錯した心の世界は、不安に駆られるマジョリティのこの心情に酷似している。なぜなら、それらはいずれもナルシズム的な、自己が依存する愛情の対象(旧来の国家、ダム湖で死んだ姉)の喪失を否認したいがために幻想のなかに閉じこもる自我のあり方を示しているからだ。
ユ・ジテの「復讐」の暴力の執拗さと残虐さは、この喪失の現実を認めることへの頑強な拒絶に由来しているとかんがえられる。

だが問題は、復讐の暴力が、現代においてはなぜここまで情緒的な形態をとるのか、ということだろう。それはたぶん、旧来の国家とともに、情緒を統制し調節していたような世の中全体の機能が失われてしまったことに関係している。これは、多くの論者が検討している重要な問題だが、ここではこれ以上ふれないことにする。
ともかく、現在の社会では、国家やさまざまな権力は、人々の情緒や生理的な感覚に、直接働きかけて操作するようになってきていることは間違いないだろう。

「ひきこもる」人たちと「他者」

ここで、最初の問題にもどって言うと、この社会全体の退行的なナルシズムと「幼児化」が、ぼくが「ひきこもり」に関して書いた「ナルシズムの可能性」とでも呼べるものと、どうかかわっているのか。
ぼくが、「ひきこもり」という現象に見出せるようにおもうのは、むしろ現在の社会のこうした硬直した否認と退行のあり方に対するアンチテーゼなのだ。それは、社会に出て行くことで、「この現実」を受け入れ、「他のさまざまな現実」の可能性を断念し譲り渡してしまうことを、断固として拒絶しようとするラディカルさ(過激さ)*4だ。だがそれは、どう実際の「他の現実」に接続できるのだろうか。「この現実」への無批判な接続が「他者」の排除を帰結するものであり、「ひきこもる」人たちはそれを拒んでいるという見方があたっているとしても、彼(彼女)たちがこの過激さ(「深い溝」を見据える態度)を保持したままで、自分の世界の可能性を他人に向かって開いていくことは可能なのだろうか。
それがもし可能なら、この社会は根本から変わっていく可能性があるかもしれないのだが。

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*2:

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*3:しかし、この「幼児性」は、あの「可能性としての暴力」と、どこかでつながっていないだろうか?

*4:これは、ぼくがこのところここで書いてきた「可能性としての暴力」というテーマの核心にかかわるものだとおもう。