自発性と「強制的授受」

きのう、id:ueyamakzkさんの発言に関して、「自発性」や「深い溝」ということに関して書いたが、どうも肝心なことを書かなかったような気がする。
これは本当に語るのが難しいことだとおもうんだけど、もう一度かんがえてみたい。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050115#p3

自分の体験からかんがえても、「自発性を永遠に待っていればよい」とはとても思えないが、それも結局ぼくの場合は「タイミング」次第だ。つまり、自分のなかに行動への動機がひそかに高まっているときには、「刺激」がうまく作用して「外に出る」(比喩として)ということになる。それだけ「ひきこもり」の度合いが軽度だということで、自発性が完全に「死滅」してしまったかのようなケースではどうかということは、ぼくにはやはり分からない。
ただ、ぼくはきのうは書き忘れていたが、紹介した文の「起源としての傷」という言葉の注のところで言われている、

現在成立している自分は、それが現在においてどれほど能動的であろうとも、その起源(出生)においては「強制的授受」だったはず。

というくだりが、本当は一番思い当たったのだ。
ぼくははっきり分からないのだが、「強制的授受」ということは、「意志したわけではないのに生まれてしまった」ということだろう。この不当さのようなかんじは、ずっとある。ぼくは、あまり精神分析的なところに還元したくないんだけど、これはむしろ人間の社会生活全体にそのかかわっているのではないか?
ぼくの場合は、朝どうしても起きられなくて仕事や学校にいけないというふうなときに、「この現実を自分は望んだわけではないのに、ここに置かれている」ということがすごく不当に思えてくる。それに呑み込まれるようにして、「ひきこもる」ような気がするのだ。「この現実」というのは、社会制度のことではない。
朝、目が覚める寸前に、これが夢であるのかどうかわからないもやもやとした状態があって、意識がはっきりしてくるにつれ、それが結晶化するみたいに現実になる。でも、その現実は、「この現実」でなくてもよかったはずなのだ。だが、毎朝結果的には、いつも同じ「この現実」だ。はっきりと目覚める前(生まれてくる寸前)にあったはずの「無数の現実」の可能性は、どこに消えてしまったのか。そのことに対する不当さの感じだ。

これは、ものすごくナルシズム的な心の状態だとおもうが、ここには何か社会的な現実に関する真実があるとおもう。
「ひきこもり」というぼくたちが(程度はさまざまでも)共通に抱えている心のあり方には、それを突きつけてくるものがあるのではないか?

それから、このナルシズム的な真実が、他人とか、他の文化といったことにどうかかわるのか、ということが重要だろう。
というのは、いま言ったような「夢」とか「ナルシズム」に根ざした、社会的な現実への違和感の表明というテーマは、自分が何らかの固有の文化・共同体に属していることと深くかかわっている気がするからだ。

ともかく、「意志したわけではないのに、ここにいる」ということへの、違和感や不満感を、自分のなかでうまく処理できなかった場合に、「ひきこもる」のだとおもう。これをある意味ではずるく処理し、毎朝本当は「深い溝」を飛び越えて「この現実」にやってきているのだという事実に蓋を出来た人が、社会生活を送っていくのだろう。
問題は、その社会生活が、今日どんなものか、ということの方だ。それ自体が、閉塞した夢のようなものではないのか。ならば、「ひきこもる」というナルシズム的な行為の方に、現実(他の文化、他の現実)への可能性があるのかもしれない。
でも、死んでしまう前に、どうやってそれを実現するのか。ここでまた、「自発性」の問いがでてくる。

これでもまだ、いろいろ言えていないとおもうのだが、とりあえずこれだけを書いておく。