当事者が社会運動することについて

最近、ぼくが見るブログ上でよく話題になっている『不登校は終わらない』という本は、まだ読んでいないし、そこから展開して「Freezing Point」さんで今書かれている「当事者」という問題のあり方についても、ぼくに言えることがなにかあるのか、分からなかったので、これまで触れてこなかった。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050508

ぼく自身いわゆる「不登校」だったわけだから、「当事者」であることは否定してはいけないのだろうが。いや、もしかすると「不登校」という言葉になにか専門的な定義があって、ぼくの場合はそれには当てはまらないのかもしれないが、まあそこはいいだろう。


それで、この「当事者」ということについては、R30さんのところでも書かれていて、今後「当事者による社会運動のあり方」みたいな一般的なところに話が広がっていくかもしれないので、それに関して思いついたことを書いておきたい。
日本の社会運動における「当事者性」というテーマについては、最近では道場親信さんによる「平和運動」史の研究などにおいて詳しく論じられているが、それは別にして、ぼく自身の思うこと。


それは、ぼくは直接知らない時代の話だが、ある時代の日本の社会運動においては、当事者自身が運動をすることが当たり前でないどころか、運動をするべきでないといった考えや空気が強かったらしい、ということだ。いや、過去の話ではなくて、今でも社会全体にそういう空気が多く残っていると思う。
つまり、「当事者だから運動をするのが当然」ということが前提ではなく、「当事者であっても運動をしてもよいし、むしろそうあるべきだ」ということを、世の中に認めさせなければならないし、また自分自身にも納得させなければならない。そういう前提をまず作らなくてはいけないという大変さが今もあるし、昔はもっとすごくあった。
そういうことだと思う。
これは、日本は特にそうなのだろうが、どの国でも事情は基本的に同じであろう。
つまりどういうことかと言うと、「当事者だから問題に熱心になるのは当たり前」というわけでは決してなくて、「当事者だからこそ、社会運動としては問題に取り組みにくい」という場合が多々あるだろう、ということだ。
当事者の運動というのは、この「当事者であっても運動をしてもいいのだ」ということを自他に認めさせる「前提作り」の作業を、一般的な運動と平行しておこなっていかなくてはいけないので、そこで非常に過敏になったり、一般の社会からは理解されがたくなったりすることが起きる、ということだと思う。


時代が変わり、社会運動のあり方も変化していくのは当然だろうが、現実にまだこうした「前提作り」をしなくてはいけないような社会全体の側の体質が残っているのだから、ある程度の「理解しがたさ」が運動団体の側にあること自体は、責められないと思う。
ただ一番問題なのは、運動の側が過度に硬直したり孤立化することで、「当事者」である個々人に対して不要な圧迫をかけてしまう場合が少なくない、ということだろう。この点は、運動をしている人たち自身が自戒するべきことで、また別の意味で、ぼくたち一般の者も(と、いつの間にか非当事者側にシフトしてるが)、それに対するフォローのあり方を考えなければいけないことであろう。
これは、誰にでも「非当事者である自由」というものがあるはずだが、それを保証できるのは誰か、という問題だと思う。
この辺は非常に微妙であり大切な問題なので、今後ゆっくり考えていきたい。


以下は、他のブログからの参考記事です。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050414#p1

http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1853395

http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/05/shure_a597.html#more

http://rumico.seesaa.net/category/276074.html