「本を読むこと」について

すでにこのブログで、何冊かの本を紹介したが、ここで本を読むということに関して、今思っていることを少し述べておきたい。

一冊の本は、一個の生き物なのだ

まずはじめに、本の読み方についてなのだが、昔ある時期、本というものはどこからどう読んでもいいし、一部分だけを読んでもいい。むしろその方が、創造的で自由な本の読み方なのだ、ということが盛んに言われていた。日本でも、寺山修司などがテレビに出て、そういうことを語っていたのが印象に残っている。
これは、特にヨーロッパの文脈においては、重要な意味のある主張なのだろうが、最近ぼくが感じるのは、やはり本は最初から順に全部読むべきだということである。
本というのは、それ自体一個の生き物で、自分の都合のいいところだけを切り取って、そこだけ読んでみても本当の値打ちは分からないのだ。
梅棹忠夫という人は、学問的な研究や整理、論文の作成をはじめとして、知的な生産活動の一切をいかに機能的・効率的の行なうかを徹底的に考え実践してきた人だが、その梅棹氏が本の読み方の一番の基本として、やはり「はじめからおわりまで全部読む」ということを強調している*1
この本のなかで梅棹氏は、まず著者の文脈において本を読むということが基本であり、そのためには著者が設定した順番どおりに読んで最後まで読み通すことが必要だ、と述べている。
非常に大切なことが書かれていると思うので、長文だが一節を書き写してみる。

著者というものは、本を書くときには、当然のことながら、わかりやすくかかねばならない。つまり、読者の身になってかくのである。同時に、読者というものは、本をよむにあたっては、著者が何をいおうとしているのかを理解しようとつとめなければならない。つまり、著者の身になってよむのである。その第一歩が、「はじめからおわりまでよむ」というよみかたであると、わたしはかんがえる。
娯楽としての読書なら別だが、一般には著者の思想を正確に理解するというのは、読書の最大目的の一つであろう。内容の理解がどうでもいいものなら、なにも時間をかけて読書などする必要はない。内容の正確な理解のためには、とにかく全部読むことが大事である。半分読んだだけとか、ひろいよみとかは、本のよみかたとしては、ひじょうにへたなよみかたである。時間はけっこうかかりながら、目的はほとんど達しない。いわゆる「ななめよみ」で十分理解したという人もあるが、あまり信用しないほうがいい。少なくともきわめて危険で非能率的なよみかたであろう。
 実際問題としては、ついよみはじめてみたものの、おわりまでよむにたえない、くだらない本だということを発見することもあり、あるいは自分にはむつかしすぎて歯がたたぬのに気がつくこともある。そういうときには、途中でなげだしてしまうのも、やむをえない。そういう場合をもかんがえて、読書の技術としてわたしが実行しているのは、つぎのような方法である。まず、はじめからおわりまでよんだ本についてだけ、わたしは「よんだ」という語をつかうことを自分にゆるすのである。一部分だけよんだ場合には、「よんだ」とはいわない。そういうときには、わたしはその本を「みた」ということにしている。そして、あたりまえのことだが、「みた」だけの本については、批評をつつしむ。

以上は、『知的生産の技術』101ページ以下からの引用だ。
これはなんとも厳しい態度だが、見習いたい立派な態度である。
本が著者の思想だけを表現するものだという考えを批判することは容易だが、ここで語られているのはそういう問題ではない。しかも梅棹氏は、これをたんに著者に対する倫理的な態度の問題に還元せず、あくまで「能率」や生産性の問題として捉えたうえでこう語っているところが面白い。
では、なぜこうした「著者の文脈」をまず尊重するという読み方が「生産的」なのか。梅棹氏はそれについて、「本を二重に読む」ということが、そのことによって可能になるからだ、ということを示唆している。「著者の文脈」を尊重することにより、一冊の本を「著者の文脈」と「自分(読者)の文脈」との二重の文脈において読むことが可能になり、実はこれが非常に生産的なことであるのだ、というのである。
これは人間同士のコミュニケーションの問題につなげて考えても非常に面白い話だと思うのだが、ずいぶん長くなったので、このことはこのぐらいにしたい。

読書に積極的な価値なんてあるんだろうか?

本についてぼくが思うことの二つめは、これはこのサイトの主要なテーマに深く関わる問題だと思うのだが、そもそも本を読むことが、社会における人間にとって何かいい意味を持つのか、ということである。
というのは、人間の世の中で書物というものが支配的な地位を確立するようになって以来、人間の社会と地球は、どんどん悪い方向に進んでいっていると思わざるをえないからだ。
端的に言って、グーテンベルクによる印刷術の発明の直後に、スペインによる新大陸への侵攻にはじまるヨーロッパ主導の「グローバル化」の歴史が始まったことは偶然だろうか?
一体、書物ほど人間の暴力性を増幅させ、自然や生命の破壊、「言葉を持たないものたち」への抑圧を強化・永続化することに寄与するものが、他にあるだろうか。
そう考えると、「いまの若者は本を読まなくなった」ということがよく言われるが、これは基本的には人間にとっても他の動物にとってもいいことではないか、という気がしてくる。
実際、「本をよく読む」人が、「本を読まない」人よりも何かがすぐれていると感じたことは、自分自身についても含めて(ぼくも、本はかなり読んでるほうだが)、経験上一度もない。
では、本を読むということに積極的な価値は何もないのかというと、そうとも言い切れない理由は、人間はどんな人でも言葉(言語)から自由には生きられない、というところにある。
ぼくは、「暴力」というものは、基本的に言語から生じるのではないかと思う。「動物についてはどうか」というのは、意味のない問いで、動物が暴力的であるとすれば、それだけ動物が言語的であるということだ。「人間」と「動物」との間に明確な区分線などない。
どんなに本が嫌いな人でも、言語から自由であるわけにはいかない(忘れがちなことだ)。つまり、言語の持つ暴力性にはいつ捉えられてもおかしくない。その暴力は物理的なものでなくとも、排除や差別・偏見などの形をとって容易に顕在化する。
本を読むという行為は、逆説的だが、この言語の暴力性の逃れがたい猛威を操作・調整し、抑制することに寄与する可能性があるのではないか、と思うのだ。つまり本は、言語という「内なる猛獣」についての知識をわれわれに教えてくれ、対処の方法についての助言をしてくれるものだと思う。もちろん、それはわれわれが本を一個の生き物として、ただしく扱う場合にだけだが。
そういう相対的な役割ということでなら、たしかに本または読書に積極的な価値を認めてもいいように思う。だが、その役割のささやかさに比べて、その危険の方があまりにも大きいことを、本好きの人たちは忘れてはならないだろう。

*1:

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 すごく面白い本です。