否定性や内向性のポジティブな位置づけ

ここまでは、ぼく自身をモデルケースにしたせいもあって、現代の人々の「自己否定的」であったり、非社会的と(ときには反社会的とさえ)みなされる内向的な傾向が持つ、ネガティブな側面、価値判断として「否定的な」部分だけに注目してきた。
しかし、実のところ、時折「ひきこもり」気味になったりもする周囲の若い友人たちのことを考えてみると、近代文明や現代社会の暴力性や権力と相同的なものとばかりは言い切れない、ポジティブな側面がこの「自己否定性」なり「内向性」にはあるような気がしてくるのだ。
一言で言うと、それは、資本の論理や、国家や制度の圧力に対する「抵抗」としての側面である。
これは、今日の日本社会が、ぼくが育った頃以上に、子どもたちや若者に対して圧力の強い社会になっていることと無縁ではあるまい。
そもそも、否定性とぼくは言っているけれども、これは(われわれの近代文明の特質である)物象化と同じものだろうか?
ぼくは、今日の若者たちが持っている否定的な衝動には、物象化に抗う要素もあるのではないかと思う。否定性は、ある場合には自他に対する破壊衝動となって、無謀で危険な行動(もっとも過激な例は、「自爆テロ」だろうか?)に人を追いやり、自殺、犯罪、戦争への支持などによって、自分と社会を破滅に追いやるだろう。ぼくは、この根底に周囲から本人に注がれた新自由主義的な選択と排除のメッセージの内面化を専ら見ようとするわけだ。この限りでは、否定性は物象化を原理とする社会や権力の要請に、主観的には抗いながらも、実際には相同的なものになっていると言わざるをえない。

だが、周囲からの物象化(「人間の資材化」)の強い圧力に由来しながらも、若者の心の中に生じ育まれた「否定的なもの」の種子は、物象化の原理そのものを「否定」する方向にも差し向けられうるのだ。それは、破壊や対立という権力に相同的な形でこの社会的な圧力に抗するのではなく、資本主義的なあるいは国家主義的、もしくは男性中心主義的な欲望の「抑制」という仕方によって、それに抗おうとする。
「学校に行かない」「社会に出て資本の仕組みの中で働くことを拒む」といった、内向的な現代の若者たちの選択は、こうした物象化の原理と圧力への「抵抗」という側面を持っているように思える。

彼らの「抵抗」をどう捉えるか

ただし、忘れがちなことは、この「抑制」としての「抵抗」が、元来否定的なものに根を持っているという点だ。だからそれは、破壊や攻撃性(自分に対して、他人に対して、社会に対しての)に、容易に反転しうる。「ひきこもり」が外部の社会の暴力性と無縁ではないと思われるもうひとつの理由はここにある。

また、別の言い方をすると、この「抵抗」は、資本の欲望だけでなく、社会の支配的な権力のもっと多様なあり方に対する「抵抗」でもある。
何が言いたいかというと、この若者たちは、「運動」とか「政治団体」「政治参加」などの、硬直した組織的・集団的な行動に対しても「抵抗」するのだ。市民運動も反権力的な政治行動も、彼らにとっては抵抗すべき大文字の「社会」なのだ。
子どもに理解のあるリベラルな親たち(多くは、市民運動や組合活動の経験者だ)に、時としてその内向的な子どもたちが違和感を表明し、齟齬が生じるのは、おそらくこうした理由による。
ここには、政治性の顕在化への抑圧が強く、個人が国家や集団から容易に自分を分離できないという、近代日本社会のローカルな特性*1をややはみ出す、もう少し普遍的な問題系が見出せるのかもしれない。つまり、大文字の「政治」や「運動」、組織に関与しないような権力への「抵抗」の道はありうるのかという課題を、この若者たちが提示しているのかもしれないのだ。

でも、これってドゥルーズ=ガタリの読みすぎかなあ?

*1:このことに関しては、やはりこの古典的な啓蒙書の一読あるいは再読を勧めたい。

日本の思想 (岩波新書)

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