『暴力の哲学』

そのときから五百年生きてるのは
そのような砦や
濠をめぐらした聚落が
すぎ去った歴史の中でなく
消えぬ痕跡を残して
いまもあるということやろう
おれも、おれの仲間も一日に十里は走れる足を持っていて
いまも駆けている
倒れてもまた起ち上って駆けている
石山から久寶寺へ
平野へ、堺へ
あのときもアザミが咲いていたこの河原の土堤のほとり、富田林へ


(小野十三郎 「環濠城塞歌二番」より  思潮社 現代詩文庫『小野十三郎詩集』)


暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)


著者の酒井隆史さんという人は、たしか大阪の南部、堺とか富田林の方にある学校の先生で、ぼくより少し若いぐらいの年の人だ。
以前から読みたいと思っていた本だが、やっと読んだ。


長文注意


この本で考えられていることの出発点は、「暴力はいけない」と叫ぶことによって、現実にはより巨大な暴力の構造が温存されてしまうことになるという、現在の社会の構造にたいする認識だ。
たとえば反戦デモのことを考えても、「暴力はいけない」という考えやスローガンによって抑制される暴力の量と、戦争で遂行される暴力の量とは、あまりにもアンバランスなものである。両者の間に相関があるかどうかは分からないが、少なくとも、この二つの「暴力」と呼ばれているものが、同じものなのかどうかは、かんがえてみる必要があるだろう。
そこで、現代社会の構造のなかにおける「暴力」というものについて、もっと繊細な分析をしようと試みたのが、この本だといえる。実際、そういうふうに「序」に書いてある。
柔軟で試行錯誤に富み、実践的な意味で大事なことがたくさん書いてある本だと思った。
以下、自分なりに整理して感想を書いてみる(ややこしいので、自分の感想の部分は太字にしてみた。)。

現代の暴力についての理論

第一部では、現代社会における暴力についての重要な理論が紹介され、また戦後世界の暴力的・非暴力的な抵抗の思想の系譜がたどられ、それとともに著者の思索が展開されていく。
理論としては、ひとつは「水平的な分断化の暴力」と「垂直的な分極化が生みだす暴力」という、フリードマンという人の区分が参照される。前者は、民族紛争や、都市部のエスニック集団同士の抗争など。後者は、経済のグローバル化ネオリベ的な政策がもたらした階級対立による暴力である。
ただし、著者はこの二つの暴力はすっぱり分けられないものであるとして、次のように書く。

むしろまず手はじめには、こう捉えるべきだとおもいます。垂直の分極化によって生みだされる距離からくる無力が、水平の暴力に内向する、という動きが現代の暴力に大きな線として貫通している、と。(p29)


これは、すごく重要な見方だろう。


もうひとつ参照されている理論は、現代の社会では、目的のための手段としての暴力ではなく、意味が脱落した暴力、暴力そのものの過剰とでもよべる現象が広がっているという、認識に関係する。著者によれば、それがもっとも具体的にみられるのは、『ネオリベラルなグローバリゼーション』によって世界中で拡大しつつある「ゲットー」(スラム)の日常においてである。
この、現代の社会における暴力の特質についての認識は、本書での著者の考察にとって重大な意味をもつ。それはとくに、結末の「むすびにかえて」の部分で再び触れられる。
ところで、この『暴力からの意味の剥奪』という現象を、「政治的なもの」の衰退と関係づけてとらえたのが、ヴィヴィオルカという人の『暴力の新しいパラダイム』についての理論らしい。
この理論は、現代の暴力を「政治以下的な暴力」と「政治上位的な暴力」の二つの特徴においてとらえる。前者は、ゲリラ組織が今では政治よりも経済的な利潤を目的に武力闘争を行うようになってきているという現実をさすが、著者はここで、上記の、目的のための手段ではない暴力を、「政治以下的な暴力」のひとつとしてとらえようとする。
一方、後者は、宗教的な原理主義などにより「政治」の枠を越えて行使される暴力のことをさしている。
ここでも著者は、この二種類の(意味が剥奪された)暴力が、ネオリベラリズムの支配の下では融合しているのではないか、という重要な見解を付け加えている。

暴力・非暴力の思想の系譜

第一部で述べられていることの二つめは、60年代から70年代初めにかけての、暴力・非暴力についての実践的なかんがえの系譜である。
まず、マーティン・ルーサー・キングがとりあげられる。彼に関して著者が述べていることの核心は、その非暴力思想は「敵対性を構築する」ための方途であったということだ。

キングからするならば、暴力を控えるということは敵対性を激化するということになる。ここがポイントです。(p45)


実際、キング自身も、行動によって『建設的な非暴力的緊張』を作り出すことこそ重要であると、明言しているらしい。
「敵対性」や「緊張」ということを重視するキングや著者の考えは、ぼくにとっては新鮮なものだった。
たしかに、「緊張」からしか生まれない対話や社会性の真実さというものが存在することは間違いない。キングにおける暴力の抑制が、馴れ合いによる対立や抑圧構造の隠蔽をもたらそうとするものではなく、そうした対立点を鮮明にすることで人と人とを裸で向き合わせようとする意図を持っていたことは、はっきり知っておくべきことだろう。


次に、マルコムXフランツ・ファノンについて書かれているのだが、ここで鍵となるのは、「憎しみ」と「怒り」という二つの感情の差異である。

憎しみは、憎しみを生むその原因に遡り、その次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの――人間、集団――を排撃したり殲滅することでカタルシスをうるという行動を導く傾向を強く帯びた感情だと思います。それに対して、怒りは憎しみそのものを生みだしているより広い条件に向かう、より思慮に開かれた傾向があるように思われる。(p55〜56)


そして著者は、現在の日本では「憎しみ」がメディアによって煽られるオーウェル的な日常が支配していることを示唆している。
この二つの感情の区別は、ものすごく重要だと思う。むしろ、本質的な「条件」への、自分一個の怒り(煽られたものではない)の自己抑圧が、「憎しみ」の増幅とそれに起因する自他の生の破壊をもたらしているようにも実感されるからだ。
このあたりのことについては、まえにmatsuiismさんが書いておられたことと深く関係しているとおもう。



さらに第一部では、マルコムXなきあとの「ブラック・パンサー」による抵抗闘争の実践と思想が検討されているが、ここで重要なのは、「主権的」でない「民衆的基盤」を持とうとした活動として、それが解釈されている点である。
「民衆的基盤」というのは、具体的には、黒人居住地域における無料朝食サービスや、医療、教育サービスの実施、また女性や同性愛者との連帯が進められようとしていたこと、などを意味する。


こうしたブラック・パンサーの試行が持つ意味を、著者は『コミュニティの「オルタナティブな行政」』(p83)の展開ととらえる。
これは、近代的な権力(行政)によって、『生そのものが支配の力に捕獲されているのなら、むしろ生のあり方そのものを闘争の焦点に定め、変えていこう、というような道筋』(p84)であった、というわけだ。
こうした『生そのものの自律』(同上)を目指す集団的な抵抗の実践ということが、いわゆる「68年的」な運動に、著者が見出している可能性の核心らしい。
それとの関連で、このあと同時期のフーコーによる権力論が参照された後、第二部ではこの可能性をめぐるテーマがさらに追求されることになる。

「恐怖による統治」

第二部の重要なテーマのひとつは、「恐怖による統治」ということである。
これは、恐怖心を増大させることが、セキュリティへの渇望を人々にもたらし、それが権力や資本の力を強めることになるという、たとえば映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも強調されていた視点であるが、本書ではとくに「マジョリティの恐怖」という『想像的な転倒』(p112)に関心が向けられる。
これは、現実の力関係でいえば絶対的な「強者」の側に属しているはずの者が、「弱者」の側に属しているはずの者に包囲され脅かされているような恐怖心を抱き、そこから過剰な暴力、凶暴性が発動されてしまうという現象である。
「ロス暴動」のときのロドニー・キング事件や、映画『GO』の一場面、またホームレスに対する「一般市民」の恐怖心(実際には、ホームレスが、「襲撃」や、行政による『しばしば暴力すら活用した排除』の対象になることの方がはるかに多い)などが例としてあげられる。
著者は、アメリカ社会でとくに顕著なこの『想像的な転倒』の構造を、ジュディス・バトラーにならって、マジョリティ自身がもつ攻撃性を他者のものとして想像して投影し、そこに「予防的」な暴力(先制攻撃)を仕掛ける行動と解釈する。これはもちろん、アメリカ合衆国が国際社会において国家単位で行っている暴力の構造でもある(『予防対抗暴力』)。


このことに関し、他にも重要な指摘がいくつかなされているが、そのひとつは、ネオリベラリズム的な「改革」がすすむ現在の社会では、コミュニティと市民社会との衰退によって、「恐怖」が個別の具体的な対象に対する感情ではなく、「不安」と同様の世界全体に対する一般的な感情のようになりつつある、という指摘だ。

(前略)ぼくたちが出くわす具体的な危険が、あたかもコミュニティから弾きだされた人間が感じるような不安の色彩を帯びるようになる。ハイデガーのいう「居心地の悪さ」が私的で内密な体験から公共的体験へと変貌するわけです。(p140)

相互不信・孤立化・国家の支配

こうした状況に対応する現代の権力の仕組みを考えるにあたって、小説『バトル・ロワイアル』に例をとった、この後の考察は、きわめて示唆に富むものだ。
それは、互いが信用のできない競争相手であるという不信感を植えつけられることが、諸個人の孤立化と、国家への依存的な帰属の強化をもたらすというメカニズムの分析である。

どんなにふだん信頼しあっている友だちでも、人間、極限状態になれば殺しあうものなのだ、だから隣人とは徹底的に不信をもつべきものなのだ。そうするとどうなるのか?隣人は信用できない潜在的な殺害者であるとすれば、われわれはより強い力によって守られなければ不安でならない、ということになる。(p145)


恐怖と相互不信の醸成が、国家による支配を強化するという、このネオリベラリズム社会の仕組みに抵抗するために、著者が見出すひとつの足がかりは、人工的に構築された「孤立化」を拒否するということ、つまり集団的な生の再発見という理念である(再び、68年的テーマ)。

孤立した個人が争いあうというホッブズのイメージするような自然状態はありえない――というのもバラバラの個人ではとても生き残るために十分な力を保有することはできず、助け合うしかないのだから。人間の暮らすところならどこでも、最小限の集団性はつねにすでに生じているのです。(p153)

「主権」・「民衆的防御」・「男らしさ」

この後、第二部では、こうした権力の仕組みから逃れる方途として、「敵対性を否認しないような」抵抗のあり方がさぐられることになる。
それは、先にも少しふれられたように、敵対性の抹消は、敵対性の絶対化と同様に、「政治的次元」を喪失させ、社会に包摂されない「敵」(オウム真理教北朝鮮など)に対する「不寛容」を増大させる効果を果たしているとかんがえられるからである。そのことによって、支配的な社会構造へと向けられるべき「正しい敵対性」は、逆に抑圧される。
つまり、権力や資本によって仕組まれたものでない、「正しい敵対性」を見定めることこそが肝要だ、というわけである。


シュミットなどを批判的に参照する議論をとおして著者が見出していく「悪しき敵対性」とは、結局、「主権」の論理とでもよべるものだ。「敵」との闘争が、結局は「主権」の奪取に終わってしまうような抵抗のあり方を、著者は批判し、それに「民衆的防御」という概念を対置させる。
ところで著者が、主権の論理にもとづく闘争や抵抗のあり方を批判するとき、そこには暴力や闘争が「男らしさ」という概念に支配されてしまうことへの批判が重なっている。
たとえば第二部のなかでは、現代社会の全体主義が、人々に弱さや無力さ、集合的むなしさといった感覚を持たせる傾向があることを指摘しながらも、だからこそ「男らしさ」からの脱落が、抵抗における「無力」であることや「力の拒絶」と結ばれて考えるべきではない、と慎重に指摘される(p125)。
こうした「男らしさ」のイデオロギーに対する批判は、第一部のはじめの方で明瞭に示されている。

男性がとりわけ女性になかなか負けられず支配的に振るまいたがるのは、この去勢の否認の一つの表現になります。「男らしさ」は、たぶん、現代における一つの大きな病になっているのではないか。その病はさまざまなかたちをとってあらわれています。暴力もその一つ。それへの固執が昂じるならば、あるいは「こじれる」ならば、他者への激しい支配欲や暴力になってあらわれる。(p22)


ぼくにとってはなんとも耳の痛い指摘だが、つまり著者は「男らしさ」という概念の支配に起因する暴力を、「正しい敵対性」の対象を見出しておらず、主権への欲望(支配欲)の構造にとらえられていることから生じる、内向的で病的な現象と見ているわけだ。
そこで、暴力が内在する「力」としての多様性を、「男らしさ」や主権への欲望といった束縛から解放するような闘争(敵対性)のあり方が、求められることになるのである。

「民衆的防御」の現代的課題

そのような闘争の形態として見出された「民衆的防御」とは、どんな概念だろう。
それは、「主権」へと集約されない複数的で分散的な連合による闘争(抵抗)ということであり、今日全体主義を強化するものとして機能している個人主義の思想に抗して、「集団性」のあらたなあり方を模索することでもある、とされる。

いまや集団に対して個を対置するのはますます無意味です。問われるべきは、開放性を唱えながらただ一つのゲームへの服従を強要していく力に対抗するための集団性のあり方です。(p189)


こうした概念をかんがえるモデルとして、68年的な闘争のあり方以上に、中世の社会が想起されているのは、現代の世界がまさに中世に逆戻りしてしまったような様相を呈してきているからだ。
この点で、ヨーロッパ中世の「抵抗権」をモデルとして、「民衆的防御」には、「既得権」の防御という側面があることが強調されているのは注目される。「既得権」を守ろうとする行為は、現代の日本では無条件の社会悪みたいに見なされがちであるだけに、このかんがえは非常に刺激的だ。
そして、現在の状況下において「民衆的防御」が背負わねばならない困難が、次のように詳述される。

ヴィリリオがすでに七〇年代に絶望的に見越していたような、軍事的なものが市場原理主義と絡み合って空間や生活全般を捕捉するという状態はますます深化しています。かつて公共性を帯びていた都市の空間や街路が私有地化され、それゆえにもはや人々が自由に活用する余地がないという趨勢も強まっている。したがって、しばしば空間を転用した「不法占拠」のようなかたちで領域性が獲得され、「既得権」として、居ることの正当性が積み上げられていくのです。いわゆるホームレスがテントをつくってたとえば公園の一部を占拠するなどという場合は、みえやすい事例でしょう。このような、一定の実定法に背く場合のある「既得権」をどのように正当化していくのか?国連社会権規約などにはすでにこのようなケースは想定されています。しかし、「実質的コミュニティ」が解体し、「難民」が厳しいかたちで集約するような「居心地の悪さ」(土地の喪失)が雇用の流動化のようなかたちでも全般化するなかで、こうした「既得権」を基盤にした「抵抗権」の刷新は切迫したものでもあるでしょう(p191〜192) 


この引用の最初の数行に示された現状認識は正確だとおもう。
だがそれに対抗するべき「民衆的防御」の具体的な展望を描くことに、著者が成功しているとは、残念ながら思えない。それはまだ、観念的な素描にとどまっている。向井孝を参照した「非暴力直接行動」の位置づけの模索も、現在の状況のなかでの抵抗にどうつながるのかが、いまひとつ見えにくい。
ただ、現状の厳しさを正確に描き出すことに成功してはおり、そこから「何がどのように目指されるべきか」という道筋の概略は提示されている。それが、本書全体に対するおおまかな評価ということになるだろう。

「暴力の過剰」について

「むすびにかえて」では、現代における「暴力の過剰」ということをめぐって、(またしても)重要な議論が展開されている。
映画『仁義なき戦い』シリーズを例にあげて著者が語るのは、70年代に入って生じた「暴力の過剰」、つまり暴力の脱手段化とでも呼べる事態が、暴力を身体的な「生の表現」ととらえる新たな暴力観をもたらしたことだ。
だが、このことは大きな危険性をともなってもいることが指摘される。

しかし、この無目的な暴力はまた、国家あるいは国家的なものがその内につねに引きこもうとしている衝動でもあるし、それ自体でいくらでも残酷なものに転化する可能性を秘めている。(p208)


こうして、最終的に著者が参照することになるのは、暴力を「攻撃と破壊とに対する喜び」と結びつけてとらえるフロイトの暴力観のリアリティである。

残酷の凄まじさは理念の道具であることが暴力の無目的さと重なりあったときもっとも発揮されるのかもしれない。(p209)


このことの前でたじろぐ著者の姿勢は、きわめて誠実なものだと思う。
さしあたって、ここでなにかの回答を安直に述べることはするべきでないだろう。ただ、フロイト第一次大戦下で見てとった暴力のある本質的な性格が、今日の世界では日常のなかで剥き出しになってきているという事実を確認するほかない。

ここであらためて、この剥き出しになった暴力に向き合いながら、そこにはらまれている力の多様性をいかにして抵抗の動きのなかに引き出し、解放するかという、本書の基本的なテーマが問われることになる。というのは、暴力の剥き出しになった本質を隠蔽し抑圧することは、権力によるさらなる暴力の行使と、歪み内向した自他への「暴力の過剰」しか生み出さないことを、本書の読者はすでに知っているからだ。
著者が本書で見出した、権力の仕組みに回収されないような闘争の条件とは、「主権」の座に立つことを拒絶するような闘争のあり方、ということであった。それは、生活の現場に根ざした「民衆的防御」という集団的な生と抵抗の思想とも、「男らしさ」のイデオロギーに支配されないような闘争のスタイルの追求ということとも結びつく。
主権を拒絶する力、というこの抵抗の方向性のなかにだけ、権力の仕組みのなかへの組織化や、限りない残虐性のエスカレーションから暴力を切り離し、われわれの生の多様な力の肯定がもたらされる道はあると、考えられているからだ。


ぼくの読解力では手に余る点も多々あったが、実践的な思考の冒険にみちた、まぎれもない好著であるとおもう。