抵抗ということ

このところ、あらためて思っているのは、「抵抗する」ということの大切さだ。
大阪市による行政代執行が行われた日、何度も書いてきたように、ぼくはうつぼ公園でテントを守る行動には加わらなかったし、特に抵抗や抗議のようなことはしなかった。
これは「行動」の問題で、一般的に言ってぼくと同様の態度をとった人たちを、その「非抵抗」の行動のゆえに非難するというのは間違っている。人にはそれぞれの、考えや事情や生活や感受性や役割や、といったものがあるのだから。
しかし、ぼくには自分があのとき、もっと根本的な次元においてするべき「抵抗」をしなかったのではないか、という思いがあるのだ。


人が「抵抗する」というとき、それは根本的にはどういうことを指しているだろうか。
ぼくは昔から、自分の内部にある「軟らかいもの」を保持していくことが、生きるうえでもっとも大事なことではないかと、漠然と思ってきた。
「抵抗する」とは、結局、この「軟らかいもの」を守ろうとすることだと思う。
自分の内部にある、といっても、それは自分一人に属しているというわけではない。保持する責任は自分ひとりにあるだろうが、そのもの自体は自分ひとりに帰属するものでなく、むしろ「自分」に先立ってあるものだ。
ぼくは、それをいまだに「軟らかいもの」という表現でしか言い表せないのだが、もう少しわかりやすい表現を考えると、自分が目の前の他人でもありえた可能性、ということではないかと思う。
現実にいつかそうなる、ということではなくて(それだと、自己内部の可能性を想像するだけになってしまうので)、自分がその人の立場であっても不思議なかったのだ、という感覚。


最近読んだ本のなかでは、『自由を考える』(NHKブックス)で大澤真幸が用いていた、「偶有性」という表現が、それを的確に指し示しているように思った。生の「偶有性」の意識をもつとは、自分が「この他人」でありえたかもしれないことを想像する余地を、自分の生のなかに残しておくということだろう。
それは、自分と他人を同一化する(転移、変容)ということではなく、その手前で、自分が他人(自分以外のもの)でありうる可能性を、自分自身において保持し続けるという、倫理的な行為だと思う。そのことによって、人は直接的な人生の経験の相違を越えて、広範な他者との社会的な関係を築いていくことが可能になるはずだ。
自由を考える』では、その社会的な生のための重要な力が、現代の社会においては大きく損なわれつつあるということが、主要なテーマのひとつとして論じられていたと思う。


根本的な意味での「抵抗」とは、この可能性を想起する能力、つまり自分の内部の「軟らかいもの」が、固くなり干からびてしまうことを防ごうとする努力だと思う。
だから、その「抵抗」の対象は、別に「権力」とか「国家」とか「世界資本主義」であるとは限らないのは、言うまでもないことである。
また、激しい実力的な「抵抗闘争」が、実際には組織への「従属」(「軟らかいもの」の抹殺)以外のものではないという例も、きわめて多いだろう。
行動としては「何もしないこと」や「たたかわないこと」が、根本的な意味での「抵抗」でありうる可能性を排除すれば、どんな抵抗もその命を失うだろう。「軟らかいもの」が、ある人において、その時最終的に何によって守られるかは、本人以外には決定できないと考えられるからだ。


しかし、そのことは「軟らかいもの」を守ろうとする人々のいわば「命の営み」としての「抵抗」の大切さ、不可欠さを否定することには決してつながらない。
この意味での「抵抗」は、人が生きていることの最終的な意味であるとさえ言えるだろう。
そして、この意味での「抵抗」が、本来的には、他人に対する関わりに関係するはずだということも、ここから知られると思う。


ここで二つのことが言える。
ひとつは、状況によって、暴力や組織化が、「抵抗」のために不可避であるという場合は、やはりありうるということだ。
だから、ただ手段が暴力的であるということや、組織の論理が優先されていることだけを理由にして、ある抵抗闘争を断罪するわけにはいかない。重要なのは、「暴力か非暴力か」ということよりも、「根本的な抵抗のためには何が必要か」ということのほうだからだ。
この場合、それが暴力や組織化の暴走につながらない歯止めになりうるのは、「抵抗」を「軟らかいものを守ること」というふうに定義すれば、抵抗の徹底は、暴力や組織化そのものへの抵抗(批判)へと帰結するはずだ、ということである。


言えることの二つめは、根本的な意味での「抵抗」は、結局目の前の他人に対する呼びかけ、という形態をとるはずだ、ということである。
それは、「私はあなたであり、あなたは私でありえたはずだ」ということを、目の前の(立場の異なる、あるいは対立する)他人に想起させようとする呼びかけだ。「抵抗」とは、最終的には、この呼びかけ以外ではありえない。
それは同時に、「軟らかいもの」を失って固まっていこうとする自分自身への呼びかけでもあるだろう。


全ての社会運動は、結局、この呼びかけを本質としてはらむほかないだろう。社会運動とは「自己」を乗り越えてなされるべき、そしてまた「自己」を乗り越えることを訴える、他者と自分自身とへの呼びかけ(働きかけ)であるはずだからだ。
この呼びかけは、運動する者の当事者に対する関係のなかに、まずあるべきものだし、それから運動する者の社会全体に対する関係のなかにも、そして運動する者自身への関係のなかにも、当然なければならないものだ。


その呼びかけが、あの日あの場所にはたしかにあったと、ぼくは思っている。
当事者も、それを支えようとする人たちも、その行動の細部についてまで論評することはぼくにはできないが、その行為の根底には、そうした「自己」を越える他者への呼びかけという要素が、含まれていたことはたしかに思えるのだ。
それがどれほど微量な、また微力なものであっても、それ以外に、社会というものをわれわれが自分の手で作り出していける可能性はないはずだ。


ところで、そういう他者に対する呼びかけの姿勢を、行動においてではなくとも、心のどこかにあのときの自分は持ちえていたか。
つまり自分は、根本的な意味での「抵抗」を、あのときも今も、試みているといえるだろうか。
それが、ぼくの自分自身への問いかけなのである。