『黙々』(高秉權)

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本書の著者、高秉權(コ・ビョングォン)さんは、元々は「スユ+ノモ」に居た韓国の哲学者だそうだが、2009年頃からの数年間を「ノドゥル障害者夜間学級」という夜学で教え側として過ごした。この本の内容は、その体験から得られた考えが大きなウェイトを占めている。

「ノドゥル障害者夜間学級」は、運動をする障害者たち自身の手で作られたもので、学校といっても受験勉強をするようなところではなく、むしろ運動する障害者を育てる、それ自体運動体のようなものらしい。

韓国には、経済的・社会的に困窮している人たちに、教育や育児・保育の場を提供しようという市民たちの自律的な運動の場所が昔から多くあるが、ここもその一つなのだろう。

その体験を通して自分が学んだものを、韓国の今の社会や運動の空間に、どう投げ込み、変えていくことが出来るかが模索されている、と言っていいだろう。

といっても、長文の難しい文章ではなく、いくつかのところに連載されたエッセイをまとめた内容である。

 

『実際はわたし自身が聞くことができなかったのに、決めつけてかれらは語ることができない存在なのだと宣言してしまった。わたしのなかの賢い哲学者が、自分の聞けないことをかれらの語れないことに取りかえてしまったのだ。しかし何十回でも同じ単語を繰りかえし語ってくれた夜学の学生たちのおかげで、ようやくいくつかの言葉を聞きわけられるようになった。そしてわかったことが一つ。世界に声なき者はいない。ただ聞かない者、聞こうとしない者がいるだけだ。(p5)』

 

『なぜここまで力を込めて夜学に出てくるのかという問いに、そしてなぜそのように体をケガしてまで闘争するのかという問いに、ノドゥル夜学の人びとは「仕方がない」という言葉をよく言う。どのようにであれ「生きぬかなければ」ならないからだ。生を諦めるのか、生きぬくのか。わたしは人文学の勉強の領域はここにあると考える。どのようにであれ生きぬかなければならない、それも「よく」生きぬかなければならないという自覚、生に対するそのような態度、そして姿勢のようなもののことだ。(p23)』

 

この本で語られているのは、今日の社会において人間や動物が置かれた、「生存」と「よき生存」とを共に否定されるような現実だとも言える。

そして、その現実の暴力に対抗して、われわれが生命として共に生きるような場所を切り拓こうとする著者の思考が、特にマルクス魯迅、またニーチェディオゲネス、プリモ・レーヴィやアルンダティ・ロイ、それに聖書や古代ギリシャの文献などとの思想的・実践的な対話を含みながら展開されている。

原著の出版は2018年だが、今現在の世界情勢を考えれば、優生思想と新自由主義的な思考が支配する社会の行く末を、主に障害者をめぐる問題から見とおした、次のような文言には誰しも心を動かされざるをえないだろう。

 

『ロイの言葉を深く吟味しよう。いわゆる「声なき者たち」とは、声を聞かない者たちがつくりだした「沈黙」であるということだ。声が「聞こえない」のではなく、わたしたちが「聞きたくないから」そのようになったということだ。ロイは「聞くことのできない無能力」を超えて「聞こうとしない意志」を暴露している。(p44)』

 

『たとえば魂の奥底に「異邦人は敵だ」という認識を持つ人は、ある恐ろしい事件を体験した時、異邦人たちを閉じこめる死の収容所を簡単に推論してみせる。事件の衝撃波がその認識の枝をしばし揺らしさえすればよいのだ。(p90)』

 

『視野の外にいる存在たちは掃き捨てられるのも簡単だ。あの使い道のない存在たち、あの重荷みたいな存在たちをいつまで抱えていなければならないのか、と。そう誰かが慎重に言葉を吐きだす日が来るかもしれない。(p98)』

 

『戸締りをしておけば今すぐに被殺者になることは免れるかもしれないが、殺人者になることは免れえないのだ。そして誰かを死ぬがままに放置することは、結局自分のなかの人間を死ぬがままに放置することである(p127~128)』

 

 

だが、なかでも私が強烈な印象を受けたのは、「わたしたちが暮らす地はどこですか」という文章である。

これは2017年11月23日に、障害者闘争の座り込み現場で行なわれた「障害解放烈士」についての講演の記録である。

標題の言葉は、韓国で障害者の激しい闘争が大きく沸き起こる80年代末に先立つ時代、1984年に「飲毒自決」を遂げたキム・スンソクさんという障害者男性が残した、遺書のなかの言葉だそうだ。

この講演で著者の高秉權は、かつて1980年代には韓国の民主化運動のなかで内実を持って用いられていたが、今では死語のようになってしまった「烈士」という、闘いのなかでの死者を指す言葉が、障害者運動の場においてはまだ生きて用いられていることに注意を促し、この言葉の真に意味するところを探ろうとする。

以下は長文だが、著者の丁寧な思考のあり方がよく示されている部分だと思うので、あえて書き写したい。

 

『もう一度自問してみます。烈士とは誰でしょうか。わたしはこのように考えます。その人は死後を生きる人です。今この「障害者解放烈士学びの場」が一例です。死後を生きるということは来世を生きるということではなく、現世で「死後の生」を生きる人だということです。死んでわたしたちのそばにやって来て、またわたしたちとともに生きる人です。それゆえ「死んだ」という事実がその人を烈士にするのではなく、今ここに「生きている」ということが、その人を烈士にするのだと考えます。その人は生者たちの言葉と行動、意志と闘争のなかで生きている人です。

 しかし、その人が「死んでも」わたしたちのそばに生きていることができる理由は、死以前の生、つまり生前の生ゆえです。その人が「死んだ」からではなく、その人が高貴に「生きた」がゆえに、その人は死んでもわたしたちのそばに生きているのです。わたしたちがその人の死を記憶するのはその人の生を記憶することです。わたしたちはその人の死からその人の生を読みとります。その人は生きようとし、生き、生かそうとしました。

 しかしもう一度言いますが、高貴な生を生きたということでも充分ではありません。模範的な生を生きたということでは誰かを烈士と呼ぶことにはなりません。その人が死にながらさけんだ言葉は、生の知恵とは異なります。その人の死はその人の生の完成ではありません。その人の死には「やりつくせなかった」何かがあるのです。ある切実さ、ある恨(ハン)の凝固したものがあるのです。その人は自分に与えられた時間、自分が属した時代と沈んでしまうことのない言葉と行動、意志を残した人です。一言で言って、その人は歴史を貫通して、完成されない何かを伝達する人です。それゆえその人は歴史のなかに存在せず、現在に生きているのです。(p153~154)』

 

著者の関心の重心が、死ではなくあくまで生にあること、だがその生とは、ここでは、生き残った者たちの傍らに無念さを伴って在り続ける死者たちの生(「死後の生」)であることが分かるだろう。

そのうえで、韓国の社会が(そして私たちの社会が)、今なお(最悪の意味での「収容所」につながる)障害者差別体制のもとにあることをはっきりと非難しながら、著者は次のように言っている。

 

『「わたしたちが暮らす地はどこですか」。エジプトを離れたモーセが定着すべき場所を知らず神に捧げる祈祷のように聞こえる言葉。しかしキム・スンソク烈士のこの言葉は祈祷ではありません。この言葉は「この地で暮らすことのできない存在」としての「わたしたちは誰なのか」という問いであり、領土から物理的に、心理的に、社会的に、経済的に、公安的に排除された者の大地に対する自己権利の主張です。それは「この地でわたしたちが暮らせるようにせよ」という要求であり、「この地で暮らす」という宣言です。「わたしたちが暮らす地はどこですか」。これは先ほどのあらゆる話を凝縮している、いかなる時間の歯によっても噛みきることのできない、ダイアモンドのような文章です。(p161)』

 

ここで(シナイにおける)モーセのことが引かれていることに、(やはり今現在の世界情勢、つまりガザのことを考えるなら)私は強い印象を受けるのだが、それはもちろん、この聖書の物語についての、フロイトと晩年のサイードによる反植民地主義的かつ脱民族主義的な解釈を思い出すからだ。

そして、この講演の最後は、キム・スンソクが夢見ていた、ささやかだが普遍的でもある解放の空間のヴィジョンを提示して、次のように終えられている。

 

『かれはそこで暮らそうとし、わたしたちにそこで暮らせと言い、この地をそこにつくれと言いました。この地を「わたしたちが暮らすことのできる地」にしようと夢見て、念願していたその人は、全身にそのメッセージを込めて死にました。いや、そのように死んだので、今なおわたしたちのそばに生きています。(p172~173)』

 

この本で語られる思想は、不正義に満ちた世界に抗して、死者と共に生きぬくという意志に関わっている。

 

『黒人と白人の世界史』

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本書で著者のオレリア・ミシェルは、「人種」という差別的な概念(第二次大戦直後に、ユネスコなどによって、その非科学性が高らかに宣明されたにも関わらず、現在なお猛威を振るっている)の原型を「奴隷制」に見出している。

人類史にあまねく見出される奴隷制の本質をなす特徴について、ミシェルは、人類学者クロード・メイヤス―が1970年代に提起したという「親族/奴隷」システムという二分法的な理論を採用する。つまり「奴隷」とは、故郷の共同体から引き剥がされ、連れて来られた国の親族(再生産)システムには決して入ることを許されない人間存在のあり方である、というわけだ。

 

 

『奴隷が原則として自身の共同体で働かないとしたら、現役の働き手ばかりでなく子どもや老人の生活の糧を含む、共同体の再生産に必要な労働に参加しないということになる。したがって、この奴隷による生産、この余剰労働は外部への奉仕に向けられる。(p36)』

 

 

『奴隷は生産はするが、再生産のサイクルには貢献できないため、親族としてみなされない。親族性が社会秩序を統制し、集団内での各人の立場と、集団との関係を決定づける社会では、親族でありえないことは、人間性からの永久追放に相当する。これこそが、前述したあらゆる種類の奴隷制を正確に定義づけるものである。親族性から疎外されることは、同族の人、自由人、国民、市民、「人権」をもつ「人間」に与えられる資格、あるいは集団への帰属を定義するあらゆる身分を伝承することができないということである。(p38)』

 

 

こうした「奴隷」という存在を作り上げ、労働力として用いることによって、特に1700年代の西インド諸島プランテーションは巨大な富を生み出すに至る。奴隷制と不可分のものとしての、近代世界資本主義の始まりだ。

だが、この富の創出の仕組みは、奴隷を「人間」ならざるものとして酷使し虐待していることへの罪の意識と切り離せないものであり、そこからその行為を否認し正当化する為に、あるいは、いつか奴隷たちに報復されるのではないかという妄想的な恐怖心の故に、際限のない暴力の増大という悪循環をもたらすものだった。奴隷主たちは、極度に残虐な暴力をエスカレートさせることでしか(「これほど酷い扱いをされる奴らが、人間でありうるはずはない」という理屈によって)、罪の意識や不安から逃れることが出来なかったのである。

 

 

『生産の規模、および植民地経済における奴隷労働の基本的な性質は、徹底した暴力の行使が唯一の社会化の原則になるという、これまでにない状況を作り出した。(p121)』

 

 

『一七五〇年代のプランテーションは、一六六〇年代のそれとはかなり異なっていた。ほぼ一世紀を経て、歯止めのきかない暴力は、絶えず農園主と職工長に妄想をもたらし、トラウマの威力を増していった。サディズム、農園主の神経症的恐怖、奴隷の怒りと恐れとそれらの内在化は、プランテーションに新たな奴隷が来ると常に呼び起こされる可能性があった。(p142)』

 

 

こうして、「ニグロ」という非人間化を正当化するような表象が出現することになる。やがて、プランテーション生産が時代遅れとなり、奴隷制が見かけ上は資本主義生産の主要な装置ではなくなったとき、この表象から「人種」という新たな非人間化正当化(資本主義拡大の為の)の装置が生まれてきたのである。

 

 

『誘惑、怠惰、悪意こそがまさに、ニグロを映し出す鏡が白人に見せているものだから、常に罰を与え、暴力を振るわなくてはならない。自分の立場にとどまる奴隷と違って、ニグロは不安定さを特徴とするからだ。ニグロは状態ではない。だから「ニグロ化」し、再びニグロ化しなければならない。「ニグロの虚構」は常に動く装置、常にくり返すべき装置なのだ。そして、ニグロを作り出すのは暴力であるから、暴力には際限がない。(p149)』

 

 

『いずれにせよ、人種のパラダイムがこうした(19世紀以降の植民地資本主義の為の)再調整―強制移住、政治的権利からの排除、強制労働、住民の隷従、土地支配―に必要な暴力を行使することを常に可能にするのである。(p185)』

 

 

『(前略)人種は、奴隷制によって行われた人間性の根源的断絶―すなわち非親族の生産―の科学的用語による再構築であると考えられるだろう。奴隷制と同様に、人種も自由人と非自由人を指定する。その目的は前者の使用のために後者の労働を獲得することである。また、人種は奴隷制と同様に、絶えず身体的暴力に頼る必要のある象徴的暴力をもたらす。その象徴的暴力はしかも、暴力の行使を正当化し、強制労働に基づく生産の必要性に応えるのである。さらに、人種は奴隷制と同様に、支配するために区別を作り出すと同時に、人種が引き起こす暴力によって再びその区別を覆す。人種はあいまいな概念で、ほとんど無意識であるため、奴隷制よりもさらにいっそう暴力を生み、本来は筋道をつけるべき社会関係を常に攪乱する。(p225~226)』

 

 

このように、歴史を通観しながら、「人種」を(「親族」に対比されるものとしての)「奴隷制」を継承した非人間化の装置として捉える著者の狙いはどこにあるのだろうか?

それは、終章に到って明らかになる。

 

 

『資本主義経済が生み出す無数のプロセスの傍らで、あるいはともに、あるいはそれ以上に、人種は、真の平等を導入するであろう共通の親族性を人類学的な意味で解体する。その真の平等においては、われわれの子どもはみんなの子どもであり、すなわち、われわれはあらゆるよりよい生活条件を子どもたちに与えようとする。親はわれわれみんなの親であり、世界のなかでわれわれの進む道を保障する人たちに、われわれが表す尊敬を受け取る。(中略)この共通の親族性は、子を作ることそのものから自由になり、切り離されるようになるだろうし、否応なく、日に日にそうなるのだ。(p327)』

 

 

『別の言い方をすれば、人種をなくすことは、親子関係にせよ、社会生活にせよ、あるいは経済共同体に関するにせよ、自然という虚構を放棄しながら平等原則を少しでも前進させることである。われわれはそのため、とりわけ生物学的親子関係の役割を最小にするような、親族性のシステムの進化を受け入れなければならない。(p327)』

 

 

つまり、著者は、(メンバーシップの条件としての)親族性という概念を、「真の平等」を保障するようなものへと途方もなく、無条件的なまでに拡張することを提起しているのである。訳者あとがきにあるように、その拡張は、「生物学的親子関係」の相対化に留まらず、ヒトと他の動物(あるいは機械?)との境界さえ越えてしまうものでありうるだろう。

 

 

この提起への賛否は保留するとして、ここでは最近鑑賞した二つの創作作品を参照しておきたい。それはJ・M・クッツエーの小説『恥辱』と、ペドロ・アルモドバルの映画『パラレル・マザーズ』だが、この二つの作品には共通するテーマ、すなわち、集団レイプによって妊娠した女性が、その子を出産し育てていくことを決断するという事態が描かれている。

まず『恥辱』についてだが、教え子の女子学生から性暴力(レイプ)を告発されて職場を追われた主人公の大学教授デヴィッド・ラウリーは、自分の行為については罪の自覚がないのだが、農場で暮らす娘から、上記のような決断(選択)をしたことを告げられて、まったく理解できず途方に暮れる。

 

『「子どもは産むということだな?」

 

「ええ」

 

「あの男たちの誰かの子を?」

 

「ええ」

 

「なぜだ?」

 

「なぜ?わたしが女だからよ、デヴィッド。子ども嫌いだとでも思うの?父親が誰だからという理由で、その子を拒めというの?」(『恥辱』 鴻巣友季子訳 ハヤカワepi文庫 p304~305)』

 

 

この小説を読んだ時、僕もこの娘の選択を理解できなかった。

だが、いま考えると、「父親が誰だからという理由で」、自分の娘である女性の出産の決定に口出しをするという態度は、端的に家父長制的なものではないだろうか。妊娠させたのは無論、男の罪だが(この父親も教え子に同様の行為をしたわけだ)、その結果妊娠した子を出産するかどうかは、当の女性以外、誰が決めるのだ。

この基本的な認識が、僕には(家父長制的な理解の枠組みの故に)欠けていた。

『恥辱』は、この面においては、アパルトヘイト撤廃直後の南アフリカの混沌とした状況下における、父親(やや高齢の白人インテリ男性)と、その大地に根付いて生きようとする娘との、他者同士としての和解、あるいは出会い直しの経緯を描いた小説としても読める。

 

『「もう愛情はあるか?」

 

 そう言ったのは彼だが、口から出たとたん、自分で驚く。

 

「この子に?いいえ。どうして愛せる?でも、愛するようになるわ。愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」

 

「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」

 

善き人か。この暗澹たる時代に、わるくない心構えだ。(同上 p331~332)』

 

 

一方、映画『パラレル・マザーズ』は、二人のシングルマザーの赤ちゃんの取り違えと、スペイン内戦時の虐殺の犠牲者の遺骨発掘による社会的正義の回復という二つのテーマを、やや強引に接続させたとも思える異色の作品である。

だが、この接続には、もちろん重要な意味が込められている。

年少のシングルマザーの一人、アナは、やはり集団レイプによって妊娠した子どもを出産する。もう一人のヒロイン、ジャニスは、内戦の頃のことになど興味がないと軽く言うアナに対して、「自分の国の過去の出来事(フランコ派による共和派の虐殺)を知ろうとしなければ、未来に展望もない」と強く批判するが、その口調の強さは、「取り違え」の事実を知っていながら、その事実をアナに打ち明ける勇気を持てない自分自身への苛立ちの表れでもある。

遺骨発掘が主題となる後半部では、こうした切実な葛藤を乗り越えて、正義と平等の実現される新たな社会を作ろうとする女性たちの連帯の姿が、男性同性愛者であることを公言している監督のリスペクトを込めて描かれるのだが、その社会を担って行くべき集団(「親族」)の中心部には、アナとその子の姿が映し出されるのである。

暴力に抗い、葛藤を乗り越えて、歴史の中に立ち上げられようとする、開かれた未知の集団性。これこそが、オレリア・ミシェルが本書で提示した「共通の親族性」のあり方のモデルと呼べるものではないだろうか。

『パレスチナ/イスラエル論』

パレスチナ/イスラエル問題の現状は、率直に言って、直視し語ることも放棄したくなるほどの惨状にあると言える。(中略)

 パレスチナは、イスラエル建国の一九四八年とその前後の「ナクバ」(アラビア語で大災厄)以降、つねに危機的であり、次々とその危機の深刻さを更新しているような状況であるため、どの時点からそれを語ればいいのか困惑する。あるいはむしろ、どの歴史的時点から語っても最悪であり、そして次の局面ではその最悪が更新されてしまうのだ。(中略)

 陸海空から封鎖され物流も制限された巨大監獄のようなガザ地区には生きる希望がない。イスラエル側から封鎖しているフェンスに近づけば殺されるか片脚を吹き飛ばされるおそれがあるにもかかわらず、パレスチナ人たちはその絶望ゆえに命知らずなデモをやめることがない。封鎖空間でなぶり殺しが進行しているにもかかわらず、国際社会はそれを目撃しながら阻止することができていない。(p11~12)』

 

 

 土曜日に、図書館に行って早尾さんの『パレスチナ/イスラエル論』(2020年)を借りて読み始めた。

しばらく読んでから、この本は以前にも読んでいたと気がついた。読んだことも、すっかり忘れてるのだ。「パレスチナ/イスラエル問題」については、無関心や忘却が、特につきまといがちであるように思う。それは、地理的な遠さや、歴史的経緯の複雑さだけが理由ではないだろう。

欧米にしたところで、決して「ホロコーストへの贖罪」というようなことがイスラエル擁護の真の理由ではないことは分かりきっているし、かといって経済的・政治的権益だけで説明できるものでもないと思う。

本書でも論じられているように、この問題が、日本国と日本社会がそこから恩恵を受けてきたものでもある現代世界の構造と核心というか、その不正義が最も集約されたものとして存在しているということに、ぼんやりと気づいていながら、いや、だからこそ、われわれはそれを意識から遠ざけて日常を生きようとしてしまうのだろう。ガザの人たちの目や叫び、そして行動は、イスラエルに対してではなく、そんなわれわれにこそ向けられてきたのだ。

このネグレクトの責任が、今われわれに突きつけられているもの、そしてこれから永久に背負って生きざるを得ないものである。(その苦しみと共に)生きることによってしか、それを果たすことは出来ないのだ。

 

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908672378

鵜飼哲著『いくつもの砂漠、いくつもの夜』から

今年の5月に出版された鵜飼哲著『いくつもの砂漠、いくつもの夜』は、収められている全ての文章が素晴らしいのだが、ここでは個人的に特に印象深かった「家族のいくつもの終焉=目的」という文章について書いておきたい。

この文章は、2014年に(おそらくフランス国内での講演として)発表されたものを元にしているようだ。

ここでは次のようなことが書かれている。

かつて1970年代(いわゆる「68年の革命」の直後)には、家族批判、「家族的なもの」の解体が、体制に批判的な(欧米や日本などの)若者たちの間で共通の目的とされていた。つまり、「家族批判」ということが大前提になっていた。

それが、2014年の時点になると、結婚や家族に一定の価値を認めるようなスローガンが(フランスにおいても)当たり前になった。例えば、「万人のための結婚」といったものである。

こういう傾向は、一般には新自由主義による社会的紐帯に直面した人々の、心理的退行(保守化)の表われのように見なされているが、そうとは言い切れない面があると、著者は言う。

ここで、2014年当時に明らかになった事実として、「68年」の家族批判を代表する書物とも言うべきドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の刊行当時、ジャック・デリダが非常に強い拒絶反応を示していたことが語られる。デリダは、「家族の終焉」が「国家(や支配)の終焉」をもたらすわけではなく、家族の破壊は「いっそう恐るべき再自己固有化」をもたらしうる、と論じていたのである。

「いっそう恐るべき再自己固有化」という言葉は、最初に読んだときはよく分からなかったが、要するに閉じてしまう(閉じさせられてしまう)ということであろう。

 

 

デリダは、そうした観点から、「家族の終焉」というテーマについて、複雑な対し方をしていたという。たとえば、自分が死んだ時に土葬にするか火葬にするのかということは、アルジェリアユダヤ人共同体出身であるデリダにとっては重大な問題だったが、生前のデリダはそのことを逡巡し、不決断のままにした。著者も、この未決定の態度は重要なものだと書いている。

このあたりで、デリダが96年に行なった有名なゼミナールの内容に触れられる。これは、ソフォクレスの戯曲『コロノスのオイディプス』のなかで、オイディプスが自らの死に際して、その墓の在処を娘のアンティゴネーに秘密にした、というストーリーをめぐっての話である。これについてデリダは、両義的な解釈を示す。一方では、その行為は、「父を追悼する」という務めから娘を解放するものという肯定的な側面を持つことを、デリダは認める。だが同時に、追悼(喪)が行なわれるべき場所を隠すことで、この父は娘が喪を行なうことを不可能にし、それによって永久的に娘を自分の元に縛り付けておこうとするのだ、というのである。

この、喪の可能性を奪われた娘の、亡き父への訴えを想像し論じるデリダの語り口は、圧倒的な迫力を持っている(『歓待について』ちくま学芸文庫 所収)。

 

さらに、ここで筆者の鵜飼哲氏は、氏の父が遺言として、自分の遺骨を「散骨」するように言い残して亡くなったことを書いている。墓に埋葬せず散骨せよという父の遺言は、オイディプスアンティゴネ―の上記の物語を想起させるものだ。鵜飼氏もまた、父によって、息子としての役目から解き放たれていると同時に、喪の可能性から追放されているという解釈も可能だろう。

僕自身は、このくだりを読んで、いまは亡くなった母の遺骨を散骨するつもりでいるのだが、そのことをこれまで、墓に象徴される「家族」という縛りから母を解き放つ行為であるように漠然と考えていたが、実際には、僕自身の「喪」(母の死の受け入れ)を自ら不可能にすることによって、自分自身を(亡くなった母と共に)母子という「家族」の枠組みの中に永続的に閉じ込めておこうとする願望(再自己固有化?)の表れでもあるのかもしれないと、気づいた。

 

 

『もっとも散骨は、今日の日本では、九〇年代初頭に事実上合法化されて以降、もはや珍しい行いではありません。それでもなお、ひとつの問いが生じます。すなわち、これまで知られてきたような墓所の終焉という仮説が、火葬が支配的である私たちのそれのような文化圏では、もはや選択肢のひとつである今、私たちは家族の終焉を生きつつあるのでしょうか?それとも、逆説的にも、こうした断絶の挙借を通じて、ある別の家族的経験が私たちを待っているのでしょうか?(p67~68)』

 

 

 粗雑に言ってしまえば、鵜飼氏がこの論考で、デリダと共に展望しているのは、「血縁」や「種」を含みつつも(あるいは、外縁を同じくしつつも)、それらを越えて広がっていくような、まったく未知の「家族」の可能性なのだろう。

 

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中上健次再考(黒川みどり『創られた「人種」』から)

 前回も書いたように、最近、南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツエーの小説をいくつか読んだのだが、クッツエーに関して、デビュー直後の1980年代前半ごろまでは、当時の世界の文学界の流行もあって、(日本では特に)その作品は南アフリカの政治的現実(アパルトヘイト)から切り離して受容されることが多かった、という解説を読んだ。当時は、ポストモダンとか、マジック・リアリズムラテンアメリカ文学について)と呼ばれる技法上の流行が、商業的な意味からも重視され、作品の政治的背景のようなことは、なるべく考えないようにされていたと、僕自身の読書経験(80年前後は中上フリークだった)を振り返っても、たしかに思う。

 それで、当時の日本の代表的作家だった中上について、この面から考え直したいと思っていたところ、たまたま図書館で見かけた黒川みどり著『創られた「人種」』(2016年)という本の第四章で、中上文学のそうした側面について論じられてたので、読んでみた。

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まず、中上自身が被差別部落の出身であることについてあまり語らなかったことや、また作品の中でも特に「路地」という語を用いていたことなどに触れた後、端的にこう書かれている。

 

 

『中上はそれでよかったのだろうか、中上の独特の文体に加えて、以下に述べるようにあえて「政治」を忌避し被差別部落をおおむね「部落問題」として語りたがらなかったことが、数多くの読者を獲得することに成功した反面、被差別部落という主題への理解から遠ざけたのではなかろうか。また、「被差別部落」ではなく「路地」と称されたことそれ自体が、作品への接近を容易にした一方で、被差別部落を見据えずに済まされたつもりになるという弊をも孕んでいたのではないだろうか。(p189)』

 

 

『しかしながら、(中略)彼が文学作品と離れて語ったものを読むと、中上は実に真正面から“部落問題”に向きあっていたことを確認しうる。 

部落解放運動の要求を請けて、一九七〇年代後半から同和対策事業が進展していったことは、一面で、被差別部落市民社会に包摂されていくことでもあった。中上は、ほかならぬこの「市民社会」とその一員になることへの根源的な批判者として立ち現われたといえよう。(p189~190)』

 

 

 さらに、こう書かれている。

 

『同和対策事業によってあたかも「差異」が打ち消され、同時に差別もないかのごとくにみなされてしまいかねない状況がつくり出されているからこそ、中上は、果たして「差異のない」ことが差別のないことにつながるのかを徹底して問うた。高澤秀次が、「中上が恐れたのは、差異をなし崩しにされた上で、隠微に差別意識が内包するという最悪の事態である。新宮市春日の路地の再編=解体にあたって、中上の抱いた危機感の本質はそれだった」と指摘しているように、それは、「路地」が消えて「市民社会」に呑み込まれていくことが果たして差別を解消するのかという問いであった。(p210)』

 

 

つまり、「同和対策事業」によって「路地」が解体され、「差異」が消滅して「市民社会」に吸収されていくなかで、そのことによって「差別」もまた消滅するというわけではなく、それは他ならぬ「市民社会」のなかに隠微に根深く内包されていくのだという危機感が、中上の文学と発言・行動の根底にあった、という指摘である。

中上の小説を愛読していた当時の僕が、作家自身のこのような危機感を感じ得ていたかというと、まったく出来ていなかったと思う。そして、それは当時の文壇や論壇、日本社会の一般的な理解(消費)の水準でもあったと思う。

これは蛇足になるが、論者の黒川がここで「同和対策事業」がもたらしたものと規定している、「差異」の消滅や、「市民社会」への同化・吸収といった事態は、世界的な文脈でいえば、経済や政治のグローバル化の進展による事態と捉えることが出来るのではないかと思う。黒川はこの章で、この時期の趨勢を「人権の時代」という語によって批判的に捉えているのだが、その意味は、差別や搾取を構造的に生み出すような現実を直視する「政治」的な視点が忌避され、「差異」の消滅によって「差別」そのものも消滅するかのような幻想に人々が閉じ込められて、差別に抵抗する力も生きる力も奪われた極度に管理的な社会が実現することへの危機感だろう。

それでは「人権」という言葉を、あまりにも外在的に捉え過ぎではないかとも思えるが、しかし、実際に日本の行政や社会の支配層が実行してきたことは、たしかに「人権」という概念の盗用(外在化)による、人々の政治的無力への閉じ込めに他ならなかったのではないかと、最近の、飯山由貴《In-Mates》に対する東京都人権部の対応などを見ていても実感せざるを得ないのである。

https://www.art-it.asia/top/admin_ed_news/229861/

 

 

『創られた「人種」』に戻ると、中上の最も政治的なテクストとも呼べそうなルポルタージュ紀州』の一章から、次のような文章が引用される。

 

『例えば、或る日或る時、市民なり庶民なりの生活の存続がおびやかされ恐慌状態になる事が起きたとする。関東大震災のような天変地異でもよいし、食糧危機でも円高による経済の破綻でもよい。市民や庶民がそれを切り抜けるには敵がいる。関東で起こった大震災の時、井戸に毒を入れに来るとデマ宣伝で次々に殺されたのは朝鮮人であったが、この紀伊半島紀州で、もしそのようなことがそっくり起こるとしたら、市民や庶民は敵をどこに求めただろう。(p211)』

 

 

そして、黒川はこう書く。

 

『すなわち、いざ危機が生じればかつて朝鮮人を虐殺したと同様、被差別部落民に向かいかねない「市民」「庶民」への強烈な恐怖と不信の表明にほかならなかった。中上は、「私の想像する被差別部落民虐殺と朝鮮人虐殺は、説明の手続きを無視して言えば、不可視と可視の違いである」とし、「私がありありと視るのはこの不可視の虐殺、戦争である」いう(ママ)。そうして彼は「路地の家並みが全部入るように向けて、写真を撮る」のであるが、「私の“戦争”はこの一枚の写真の中にもある」といい、「路地」のなかに、“戦争”“虐殺”が及びうる可能性を見るのである。繰り返すまでもないが、差別が不可視化されつつある「市民社会」のなかに実は潜む差別の延長線上に、しばしば国家権力とも結びつく“戦争”“虐殺”があることを彼は感知しており、そのことの警鐘を発してやまなかった。(p211)』

 

 

また、「路地」の解体後に書かれた中上の代表作の一つ、『千年の愉楽』からは、次のような一節も引用されている。

 

『それがよい徴候なのかどうか分からない。オリュウノオバは考えていた。誰も昔やった事を謝った者はない。四民平等だと言うがひと度昔のように物資が不足したりかつてあった震災のような事が起ると皆殺しに会うのは見えている。朝鮮人が多数いきなり理由なしに殺されたにもかかわらず新日本人とされたのと同じような意味が、四民平等に入っている。(p229)』

 

 

「誰も昔やった事を謝った者はない。」

この危機感を中上が書き続けていたことを、僕はまったく読みとれていなかったと、今にして思う。

 

 

ところで、こうした日本の「市民社会」の、自らの差別性に対する鈍感さに絶望した中上が(この作家・男性が他の面では生涯持ち続けただろう差別性は、また別の問題だ)、救済の道としてすがったのは、文学的・美学的・想像的な領域、なかんずく「天皇」の存在だった。

ナショナルな「市民社会」と、それに深く結びついた「政治」の限定的な性質に嫌気がさした末に、「天皇」に救済を見出すというのは、石牟礼道子の辿った道にも似ているが、それについて、この章の(そして本書全体の)最終部で、黒川はこのように書いている。

 

中上健次は、天皇を軸とした「日本」に部落問題の「無化」を描いた。“夢見た”という方が正確かもしれず、それはリアリティをもたないことは中上も承知していたはずであり、にもかかわらず彼はそうするしかなかったのであろう。とすれば、私は、丁寧に真の「無」を求め続けていくという、「不断の精神革命」をめざして歩むしかないだろう。それは、ほかならぬ自分の所属する集団以外の、すなわち自己の利害に関わること以外のことについての差別の不当性を認識し、それに立ち向かうことのできる普遍的な人権の希求であらねばならない。(p254)』

 

「差別」の真の「無」に向っての永久革命。言い換えれば、「人権」という不可能なほどに過酷な概念の絶えざる、永久的な普遍化、内在化の為の、真に政治的な闘争。

進むべき道はそこにしかないだろうと、僕も思う。

クッツエーの三作品

 このところ、J・M・クッツエーの小説、『恥辱』(1999年)、『鉄の時代』(1990年)、それに『遅い男』(2005年)を立て続けに読んだ。

 クッツエーの小説は、以前に『マイケル・K』(1983年)を読んで、非常に良かったのだが、その後に『夷狄を待ちながら』(1980年)というのを読んだら面白くなくて、途中でやめてしまった。

 今回、思い立って、上記の三作を読んだら、やはり面白かった。ポストモダン色の強い『夷狄』以外の4作は、語り口など大幅に異なる面があるとはいえリアリズム的(現実的と言ってもよい)な手法なのは共通してるので、僕には、そういう小説しか理解できないのかも知れない。

 クッツエーは、周知のように南アフリカ出身の白人作家だが、ノーベル文学賞を受賞した21世紀初め頃にオーストラリアに移住した。それで、上記の中では『遅い男』がオーストラリア移住後の作品であり、舞台も南アから豪州に変わっている(『マイケル・K』は架空の土地が舞台とされてるが、南アがモデルなのは明白)。

 これらの作品に共通して描かれている「現実」というのは、南アフリカもオーストラリアも、「植民者が作った国」であるということに関係している。クッツエー自身は、そのことに自覚や誇りも持っているが、もちろんアパルトヘイト体制を含めて、そういう暴力的な社会を作り出してきた(また、それによって生み出された)自分たちの内面の「空虚さ」のようなものを、ずっと掘り下げ続けている作家だと思う(それは、ポストモダン的な作品でも同じだったのだろう)。

 今回読んだ三作品では、そのことが、男性中心主義批判(フェミニズム)の視点に深く重ねられていたり、また特に『恥辱』においては「動物の命」というテーマにつながってたりするのだが、大枠としては変わっていないのだと思う。

 これほど、自分にとって身近なテーマを扱っていると実感させる有名作家を、他に知らない。

 

 

『「子どもは産むということだな?」

「ええ」

「あの男たちの誰かの子を?」

「ええ」

「なぜだ?」

「なぜ?わたしが女だからよ、デヴィッド。子ども嫌いだとでも思うの?父親が誰だからという理由で、その子を拒めというの?」(『恥辱』 鴻巣友季子訳 ハヤカワepi文庫 p304~305)』

 

 

『「もう愛情はあるか?」

 そう言ったのは彼だが、口から出たとたん、自分で驚く。

「この子に?いいえ。どうして愛せる?でも、愛するようになるわ。愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」

「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」

善き人か。この暗澹たる時代に、わるくない心構えだ。(同上 p331~332)』

 

 

『(前略)なぜわたしが母親の思い出に執着するか。理由は、もしも彼女がわたしに生命をくれなかったら、だれも生命をくれなかったから。わたしが執着するのはたんに母親の思い出にではなく、母親自身に、母親の身体に、その身体からこの世にわたしが生まれたことに対してなの。血と乳として母親の身体を飲み、わたしはこの世に生まれた。そして盗まれ、それからずっと、失われていたのよ。(『鉄の時代』 くぼたのぞみ訳 河出文庫p161~162)』

 

 

『わたしのなかにあるのは死だけではないのよ。生もあるの。死のほうが強くて、生は弱いけれど。でもね、わたしの責務は生に対するものよ。それを生かしておかなければならない。絶対にそうしなければ。(中略)誤解しないで。あなたは息子よ、だれかの息子。わたしは息子たちに反感をもっているわけではないの。でも、生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがある?男の子だか女の子だか、見分けなんてつかないんだから。(中略)生と死を分つ差異はごくごく些細なもの。でも、ほかのものはすべて、曖昧なものはすべて、強く押せば譲るものはすべて、弁明の余地なく廃棄される。わたしが問題にしているのはその、弁明の余地すらあたえられないことなのよ。(同上 p213~215)』

 

 

『これは不要な複雑さかしら?わたしはそうは思わない。文章のふくらみというのか。呼吸と一緒よ。吸って、吐いて。ふくらんで、しぼむ。生命のリズムね。ポール、あなたもっと充実した人間になれるのに、もっと大きくもっとふくらみを持てる人なのに、自分でそれを許そうとしない。だから強く言っておくわ。思考の流れを途中で断ち切らないで。最後まで追っていくこと。思考と感情の流れを。それとともにあなたは成長する。(『遅い男』 鴻巣友季子早川書房 p193)』

 

 

『「(前略)言語に関して言えば、わたしにとっての英語はあなたの場合とはどうしたって違う。流暢さとは関係がないんだ。お聞きのとおり、わたしの話す英語は流暢このうえないだろう。しかし英語をものにするのが遅すぎた。母さんの母乳のように自然なものではなかったからね。実をいうと、まったくなじんでないんだ。内心では、いつも腹話術師の人形みたいに感じてる。わたしが言葉をしゃべっているのではなく、あくまでわたしを通して言葉が話されている、とね。英語はわたしの芯の部分、モン・クールから出てきていない」と、ここで彼は言いよどみ、踏みとどまる。“わたしの芯はがらんどうなんだよ”。そう言いそうになる。(後略)(同上 p242~243)』

『テロルはどこから到来したか』

impact-shuppankai.com

これも鵜飼哲さんの、2020年4月に出版された旧著になるが、買って読んだ。

今はなき雑誌『インパクション』に掲載された文章を中心に(あとがきでは、インパクト出版会の須藤久美子さんに対して、特に謝意が述べられている)、80年代後半のものから近年のものまで収録されていて、どの文章も刺激に富んでいる(日本の死刑制度についての講演などは、特に重要だと思う)が、とりわけ主題になっているのは、2015年1月にパリで起きた「シャルリ・エブド襲撃事件」の背景と余波である。

この事件について、鵜飼さんは、殺害された「シャルリ・エブド」の漫画家やジャーナリスト、学者たちと、襲撃を行った青年たち、双方に寄り添う形で繊細な分析を行っている。「シャルリ・エブド」は、事件当時の僕の印象としては、「表現の自由」を盾として、イスラム教徒の心情を傷つける酷い風刺漫画を載せる雑誌というイメージがあったが、この本で読むと、湾岸戦争の頃の創刊当時には、米国を中心とした湾岸戦争に明確に反対し、また、反ネオリベ反核・反原発の主張を含むなど(そういう主張をしてた人たちも、この事件で命を失ったのだが)、元来はフランスの左翼の中でもしっかりした発信を行なっていたメディアだったことが分かる。それが、2001年の「9・11」を契機に、親イスラエルに転じるなど、次第に変質していった。とりわけ当時の編集長のシャブという人は、「表現の自由」というテーゼを頑として譲らず、イスラム蔑視の風刺画を載せ続けたという。

一方、襲撃を行なった青年たちも、2005年のパリ近郊暴動の時と同じように、植民地主義レイシズムを露呈させていくフランスの政治・社会のなかで苦しんだ挙句に、イスラムの「始源」への回帰(むしろ、伝統の否定)を主張する硬直的な言説に引きつけられていった移民社会の若者たちであった。

ひとつには、この両者の、非常にマッチョで単純化された思想同士の、「意地の張り合い」の帰結として、この凄惨な事件を批判的に見出すという視点がある。これは、デリダや鵜飼さんの、比較的理解しやすいスタンスだといえる。

 

 

だが同時に、この出口のない状況の中で、自死的ですらある行為(攻撃)の遂行へとどうしようもなく赴いていく人々の内面(主体性)を、歴史のつながりのなかで、どのように想像し、そこに関わっていくかということに対する、鵜飼さんの苦悩も感じる。

僕が最も考えさせられたのは、映画『山谷 やられたらやりかえせ』の監督で、撮影中にヤクザに殺された山岡強一氏の殺害後30年の集まり(2016年)での講演「生きてやつらにやりかえせ」の一節だ。そのなかで、鵜飼さんは、これは「シャルリ・エブド」の事件と、「やられたらやりかえせ」という言葉(思想)との両方を想起しながらだと思うが、ニーチェが「復讐」を重視し、人間は「復讐」を通してのみ「平等」という観念(認識)に到達しえたのだという洞察を行ったことを強調して、次のように書いている。

 

『今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。

 「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。(p268)』

 

 僕はこれを読んで、「復讐」とは身体性のことだろうと、とりあえず理解した。情動という言葉を、あてはめてもほぼ同じだろう。

それは、目を凝らして見ようとしなければ消えてしまうような、(共に、すなわち平等に)生きようとする願いの、はかないが切実な証なのかもしれない。