強者の論理を支え続けるもの

非常に典型的な発言だと思うので、批判しておきたい。


大阪・高2自殺:「最悪の大失態」橋下市長
http://mainichi.jp/select/news/20130109k0000m040060000c.html


大阪の高校で、体罰が原因とされる生徒の自殺が起きたことに関する、市長の発言である。
見出しの「最悪の大失態」という言葉を見た時に、だいたい察しはついたが、その通りの内容だった。
禁止されている体罰が行われて、それが原因とされる自殺が起きたというのに、その体罰が存在することは当然の前提であるとされ、その上で事後の対応が重要だとの認識が表明される。
そして、その対応を強化するするために、教育現場に介入する自分(市長)の権限を強めていくことが宣言されてるのである。


実際教育現場において、「体罰」として事後に非難されることがあっても、やむをえない場合というものもあるかも知れない。
だが、禁止されている行為が後を絶たず(最近10年間、全国の学校で毎年400人前後の教員が処分されているそうだ)、それが原因で自殺まで起きているというのに、市長の発言の基本は、まず「体罰がある」という(規範に反する)現状のなしくずしな是認(正当化)なのである。
むしろこれが、彼がここで主張したいことの本筋であると考えるべきだろう。そして、体罰と呼ばれる、出来るだけあるべきでないとされている暴力的行為が、減ることなく存在しているという現状が是認(正当化)された上で、その現状を変えるためだと称して、教育現場への強権的な介入という、もう一つの暴力が正当化される構図になっている。
規範を逸脱するような強者による暴力の行使は、避けようもなく生じるのが現実であり、その現実は変更しようがなく、そこから生じる無用の混乱を収束するためには為政者による介入という、もう一つの暴力の行使に頼る必要がある。
そう言っているわけだ。


市長は、自分が子どもに手を上げることもあるとして、教師による体罰を正当化してるようだが、強者による暴力、強権的な暴力が不当であるのは、親だろうが教師だろうが変わらない。
体罰は(必ず)ある」という言葉を、DVやパワハラに置きかえてみればよい。橋下氏の発言が、いかに自己の暴力性に開き直った野放図なものか分かるだろう。
そして、この野放図さこそ、大衆の飼い慣らされた心に喝采を呼びおこすものなのである。


中央政界では、安倍首相が「安倍談話」の発表を計画しているというが、「従軍慰安婦」問題や南京の虐殺など過去の行為を否認することにやっきな新保守主義者、いや新極右の発想と、橋下氏のようなネオリベ系の政治家との、支持者たちの心理的な共通性は、このあたりにあるのかも知れない。
安倍氏のような極右的な政治家が大衆の喝采を浴びるのも、その発言が、たんに過去を否認して身勝手な歴史観を披瀝しているというより、植民地主義や差別の上に積み重ねてきた強者の特権性の上に開き直って居すわり続けたいという、人々の願望を是認してくれるものとして受け取られているからである。


規範性への信頼や、他者に対する公平で繊細な倫理的態度といったものに対する忌避が、橋下氏や安倍氏に対する支持の根底にはある。
社会の中で権力の仕組みと構造を通して振るわれる暴力を容認し、その力学に身を任せることで、自分が相対的に安定した強者(特権保有者)であることを守りたいという、人々の悪しき保守主義の傾向に、これらの政治勢力は巧みに附け込むのだ。
こうした人々の傾向は、ネオリベのような形で作り出され煽られてきた社会的な不安の心理に起因するものではあるが、それは単に操作されるものというより、人々の欲望の排他性に基づいてもいるのである。
われわれは、この自分のなかの差別的なもの、「強者の論理」にこそ向き合って行くべきだが、そうすることが結局は現在の権力の在り様を危くするものだと知っているから、権力者たちはそこから目を背けさせ、野放図な欲望を是認して、暴力に満ちた牧場の中に留まりつづける事を、自分らの「家畜」たちに促すのだろう。


不当な暴力の行使があり、不幸な出来事が起きてしまったとき、人がなすべきであるのは、あってはならないことを批判し、その再発を防ぐために、自分自身に内在する暴力性や「強者の論理」を含めて、暴力が是認される社会のあり方そのものを非難していくことである。
橋下氏や、ネオリベ的な論者たちや、また極右的な政治家たちの態度と発言は、それとは全く逆の方向を向いている。
彼らは、暴力的な社会の現状を是認するメッセージを送り続けることで、大衆の支持を取りつけながら自分たちの利益と権力を維持したいのであり、そのようにしてわれわれを支配権力に従順な「家畜」のままにしておきたいのである。