『天皇の逝く国で』

天皇の逝く国で

天皇の逝く国で


天皇裕仁の死が目前のものになった1988年の後半から89年のはじめにかけて、日本全体が、(当時の感覚としては)異様な「自粛」ムードに覆われた。
著者のノーマ・フィールドは、その抑圧的な空気を、戦後の日本社会が戦前からの継続として持ち続けてきた本質が、あからさまに立ち現われたものだと捉える。
協調を乱すような諸個人の行為や言動、異議の主張や感情の激発といったものを、禁圧し貶め封じ込める暗黙のルールが、「平和」と「繁栄」という語で修飾されてきた戦後日本社会の日常を、根底で支配してきたと見るわけだ。
元号の変った89年、ノーマ・フィールドが会いに出かけた、この本の三人の主要な登場人物は、いずれもそのような暗黙のルールにあえて具体的に逆らった人たちである。
その三人とは、87年に沖縄の読谷村で、「国体」の競技場にかかげられた日の丸を引き下ろして焼棄てた知花昌一自衛官であった夫の護国神社への合祀に抗議する訴訟を15年間にわたって闘った末に、88年に最高裁判決によって敗訴が確定した中谷康子。そして、上記の「自粛」ムードが国全体を覆うさなかの88年暮れに、議会で「天皇の戦争責任はある」と発言し、その後もその考えをまげることなく主張しつづけた、長崎市長本島等だ。


この三人は、いずれも、日本社会の禁忌を犯したと見なされたその行動、言動に対して、あらゆる形での攻撃を受けることになる。
知花の場合、右翼からの攻撃はすさまじく、脅迫はもちろん、経営しているスーパーマーケットは放火され、店先には連日右翼が居座っての嫌がらせが続いた。そして、警察もその実態を知りながら、具体的にはなんら知花を守る策をとらない。裁判所も、傍聴席は優先的に右翼の傍聴者たちが占められるようにし、傍聴席から知花に投げつけられる露骨な脅迫の言葉を制止しようともしない。
警察・司法と右翼が一体になっての攻撃が続けられたのだ。また、知花たちによる生存者への困難な聞き取り調査の末に作られた、読谷の「ガマ」での(沖縄戦における)集団自決の死者たちを記念する像も、やはり右翼によってめちゃめちゃに壊されてしまう。
一方、中谷康子のもとへは告訴直後から、日本各地の「遺族」や一般市民たちからの「脅迫や罵倒の手紙と電話が殺到しはじめ」ることになる。その手紙の文面を見たノーマ・フィールドは、そこに込められた憎悪の激しさに圧倒されたという。

一通、また一通と繰りかえし叫びたてているのは、中谷康子が靖国や県の護国神社への夫の合祀を拒んだことにたいする憤り。あなたはわたしたちの気持を踏みにじるのか、夫を、兄弟を、息子を失ったわたしたちの唯一の慰めは、その死が永久に国家によって栄誉とたたえられることなのに。(p164)

そして本島の場合には、もちろんあらゆる政治的攻撃や非難の末に、90年1月にはついに右翼による狙撃を受け、瀕死の重傷を負うことにさえなった。
同時に、これらの人々を苦しめたのは、こうした攻撃だけではなく、周囲の人たちからの孤立でもあった。守るべき暗黙のルール、同調性の掟を守らなかったことに対する、身近な人たちからの非難や離反。
彼・彼女らは、「もっと他の人たちの気持にも配慮するべきだ」とか、「主張は正しいが、表現や時期が適切でない」とか、「そんな過激なやり方は逆効果だ」といった趣旨の批判を、非常にしばしば受けることになった。
そうした批判に対する著者の明確な反論は、とくに本島等についてのパートにはっきり書かれていると思う。
本島の発言が、裕仁がまさに死に瀕し、日本中が自粛の嵐に包まれていたそのさなかに発されたというタイミングについて、著者は書く。

彼の批判者の言い分とは逆に、タイミングはまさに適切だったのだ。批判的な疑問がたんに礼儀に反するかどうかの問題になってしまうような、タブーに縛られた陳腐さが、言ってはならないことを口にした発言によってまさしく打ち砕かれたのである。(p223)

また、次のように書かれている本島自身の言葉も、常に「打ち砕かれ」ねばならないもの、明確にされなければならないものが何であるかということを、今の私たちに教えてくれていると思う。

全国の人びとがわたしを支持して立ちあがったのは、言論の自由を守りたかったからだ、という見方をしている。だがそういうことじゃない。ぼくは天皇の戦争責任を言ったんだよ。新聞の社説はこの問題を取りあげるときはいつも、言論の自由についてしか言わない。(p310〜311)


本書の大きな特徴は、これら日本社会の正統な叛逆者たちと、その周囲の人たちに向ける著者のまなざしの繊細さだ。
ノーマ・フィールドは、何が抑圧され、貶められ、あるいは分断されているかといったことを、自分自身の人生の苦悩と、また喜びや「愛着」といったものを介して、丁寧につかみ取り、ページの上に書き表していく。
だからそれを読む者は、普段は蓋をして過ごしている自分自身のなかの痛みや陰りのようなものを、突きつけられながら読み進めていかざるをえなくなるのだ。この本の分析は、そういう内在的なまなざしによって満たされている。
そのまなざしによって著者は、たとえば知花昌一の行動の背後にある沖縄の苦悩の歴史と構造を読み取っていく。
すると、日の丸を引き下ろして焼き捨てた知花の行為と、日の丸掲揚を最終的には容認し、知花を告訴さえした当時の読谷村山内徳信との間にあるものが、実際には日米の支配に対する、立場や抵抗の手法の差異といったものでしかなく、「本土」の政府や知識人や運動によってそこに作り出される「対立」以外には、「対立」や「矛盾」などありはしないのだという自明の事実も、明らかになるだろう。
その沖縄の歴史的体験の核をなすものが、沖縄戦の記憶である。いわゆる集団自決について、著者は「強制的集団自殺」と呼ぶべきであると提起するのだが、そこに込められた意味は、この過酷な体験との直面を通して、被害者であるだけではなく加害に加担した者として自分たちの歴史を背負い、そのことで歴史の客体ではなく主体としての力を奪回しようとする、知花たち沖縄の人々の姿勢へのリスペクトだと思える。

今日、沖縄でもその他の日本でも、日本の被害者である沖縄、アメリカの被害者である日本という図式でのみ語ることは、日本のアジア侵略の歴史、それがはねかえって本土と沖縄双方の日本人に深い苦しみをもたらすにいたった歴史を、忘れることになる。このような等閑視はさらに、もっと隠微な抑圧にたいする無関心を強めている―本土と沖縄とを問わず日本全国、いや、見かけはちがっても本質的には酷似したかたちで世界中にひろがっている、成功モデルの押しつけによる抑圧に。無関心はかならず批判能力の喪失をもたらす。「強制的自殺」という形容矛盾の訳語を私が使うのは、ガマの出来事では強要と同意、加害と被害性が暗くからみあって働いていたことを示唆したいからだ。スーパーの経営者、知花昌一が日の丸の押しつけに抵抗したのは、現在への無関心が過去の忘却と重なりあっていることを、するどく感じとったからにほかならない。(p82)

こうした「抵抗」の姿勢と感受性は、「本土」に生きる者たちこそが深く学ぶべきものであろう。「本土」の人間の抵抗と真の解放なしには、沖縄の解放もまた為し難いのだから。


「本土」との間にはっきりとした差異や緊張関係のある沖縄とは違って、山口県に住む女性である中谷康子をとりまく日常の雰囲気の抑圧性は、多くの読者にとって身近に感じられるものだろう。
おそらく、同じ女性としてということがあるだろうが、著者が寄せる共感の度合は、このパートではひときわ強く、また繊細に思える。
そのあらわれはたとえば、ときに支援運動に対しても距離感を感じる中谷の、「自衛官」である亡夫と、その人を夫に選んだ自分の人生とを、いかに肯定し取り戻していくかという葛藤への、深い想像力である。

いまの彼女は夫のことを言うとき、「彼はお役に立った」、「用いられた」という言い方をする。肯定的に言っているのだが、自衛隊や、隊友会や、護国神社が夢想もしないような意味においてである。ゆっくりと、回り道をしながら、中谷康子は夫の死を彼らの言う有用性と奉仕の観念から奪い返して、彼女自身のためだけでなく、まだ生まれない世代をもふくめた、想像される一つの共同体のために、それを再生させた。そうすることで自分の結婚の正当性への疑問を消化しただけでなく、合祀されているという動かせない事実にたいする自分の惨めな気持ちを超えもしたのである。(p184〜185)

そして著者は、中谷の、日本の「ふつうの女」としての人生の抑圧と葛藤を、繊細な想像によって追体験し、彼女が何を求め、この社会の何にたいして抗い続けるのかを、精確に言葉にしていこうとする。

この繰りかえしは、ふつうの幸せを求める中谷康子の情熱と、そこからの疎外を裏書きしている。彼女はもしなれさえしたら、ほかの人たちのようになっていただろう。まさにこのことが、子どものころの彼女に向けられたあの質問をあれほど残酷にし、あれほど無益にしていた。ふつうの幸せへの不屈の希求があったから、それを掘りくずす力にたいしては、残酷な力であれ、捉えがたい微妙な力であれ、彼女は敏感になったのだと言えよう。だから彼女は、夫に死なれた妻に国家が不当な押しつけをしたことを、子どものころの欠乏感と結びつけて考えることができたし、国家というものは自衛隊隊友会護国神社だけではなく、べつのかたちをとることもありうると理解できた―義父、祖父(所詮、祖父というのは母の義父なのだ)、義理の継母の母(妻たるものは仕えるために生を享けたのだと教えた人)、年号の書き方などどうでもいいではないかと銀行で忠告した老婦人、「裁判の人」が職場にいるというだけでいやな顔をする同僚たち、ふつうの日本の寡婦が明らかに常識的な日本流のやり方に異議を唱えたことに眉をひそめ、怒りをぶつけてきさえする何十人もの見ず知らずの人、こういう人たちの姿をとることもあると。(p195)


本書の終わり近く、本島等との対話のなかで、ノーマ・フィールドは、日本では医師が患者に癌を告知するケースが少ないということ、また最高裁がこの慣行を支持する趣旨の判決を下したという話題をとりあげて、以下のように語りかけている。

この慣行は、あえて図式的に言うなら天皇制のもう一つのかたちではないか、私はそんな気がしはじめたのです。だれもが挙げる理由は、日本人は気が弱いから、そんなつらい告知に耐えられないとか、患者はショックで死んでしまうとか。私はそんな説明はもう信じていません。告知しないですませば、医者は患者を扱いやすくなる。患者の恐怖や不安に向きあわなくてすみますからね。ふつう癌患者は告げられなくても自分は癌ではないかと疑心暗鬼になるし、癌でない人でも癌を心配しがちです。いまの日本のやり方だと、死んでいく者とその家族のあいだでさえ、そういう感情をおもてに出せない、禁じられてしまう。(p293)

この言葉には、日本社会の「禁圧」のシステムに対する、著者の批判の核心が示されていると思える。
死に際しても、感情をおもてに出して秩序や同調性を乱すことが禁じられ、秩序正しいシステムの維持が、生命や、切実な感情の表出よりも重要なこととされる。そうした価値観を、私たち一人一人が内面化しているのが、この「日本」という社会なのだ。
著者の怒りは、生や感情(情動)の、この収奪に対して向けられたものだ。
そして、この怒りは、本書の巻頭にかかげられた、宗秋月の詩「哀のパラドックス」に呼応していると考えることができる。

在日朝鮮人女性である宗秋月は、有名な日本女性詩人の与謝野晶子日露戦争前夜の一九〇四年に書いた反戦詩から「君、死にたまうことなかれ」の言葉を引用し、それに巧みなひねりを加えて、天皇にいましばし死を引きのばせ、戦前には現人神として、戦後には象徴としてのアイデンティティによって彼には否定されてきた人間性を獲得できるように、と呼びかける。サディスティックともみえるこの要求は、ユートピア的次元をはらんでいる。日本の天皇は、死の淵に沈みかけているいまなら、死んだ朝鮮人労働者との相関性を認識できるだけの人間性の芽生えに到達できるかもしれない、と宗秋月は言おうとしているのだ。(p333)

この「ユートピア」では、虐げられた人々が天皇へと回収されるのではなく、天皇が、また天皇とともに私たち個々が、システムから解放され、解体されて、「人間性」の場所へ、あるいは「人間」という枠組さえ越えた「動物」的といってよいような情動の場所へと呑みこまれていくと考えられよう。
その場所でこそ、私たちは個々の生と感情とを奪回し、相互の関係をも奪回することが出来るだろう。
この本が伝えて来るメッセージは、私にはそうしたものだと感じられた。