ETV特集 『シリーズ 安保とその時代  第4回』

日曜日に放映されたもの。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html


シリーズ4回目の今回は、60年安保当時、「安保賛成」の立場で活動した学生たちのグループ「土曜会」メンバーの回想と、その後を描いた内容だった。
このグループの出身者たちは、後に政界・官界・経済界・マスコミ及び言論界などの有力な地位について働くようになった。
番組中でコメントしていた佐々淳行氏や谷内正太郎氏などは、その代表例である。


このメンバーたちの「その後」を語る言葉で印象的だったのは、学生だった60年安保の頃は、安全保障の問題を真剣に考えて議論したり活動したりしてたのだが、卒業し社会で働くようになると、経済成長を続ける社会の雰囲気に飲み込まれたということもあり、「安保」のことには次第に関心がなくなっていった、という述懐。
これは、ほとんどの人が口を揃えて言っていた。
それを見てて、よく、学生時代に「安保反対」を熱心に唱えたり、後には全共闘で活動したりした人のほとんどが、卒業して就職すると体制に飲み込まれて政治に関心を持たなくなったり、すっかり保守的な考えになることが、揶揄的・自嘲的に語られたりするが、証言の言葉を聞く限りは、その事情は右派・保守派の学生に関しても全く同じなのだなあ、と思った。
「学生の頃は右派で、今も右派」だといっても、「転向」してないということではなく、学生の頃は「自主独立」だとか「体制内改革」だと言って理想に燃えてたのに、年をとると結局単なる「体制内順応」「従属容認」みたいになってしまった。
そういうことだったようだ。


この人たちとの対比で、「土曜会」のメンバーであり、後に佐藤政権時代の沖縄返還交渉で密使として重要な役割を果たした、(故)若泉敬氏の晩年が、非常に印象深く描かれる。
これは、たしかに大変な迫力だった。
核密約」までして実現させた沖縄返還交渉が、日本に「従属からの脱却」をもたらさなかったこと、同時に、沖縄の基地負担の軽減という結果を遂にもたらすことがなかったことに慙愧の念を抱き、病をおして何度となく沖縄に足を運び続けた晩年の若泉。
核密約」の事実を告白する本を出版し、現状を変えようとして抗うが、政府・外務省にも世間にも黙殺され、最後は与那国島で執筆中に発作を起こして倒れた時、「島の無縁仏として葬ってくれ」と言葉を残したという。
その壮絶な姿は、たしかに、日常の日々のなかで「体制」や「従属」に飲み込まれていった他のメンバーたち(のみならず多くの日本人)の姿と比較するとき、強烈な光を放っているという印象を受ける。


だがもちろん、ぼくは若泉の考えには反対である。
あるメンバーの回想のなかで、60年安保前夜には、「アジアの片隅で、日本はこじんまり生きていけばいいじゃないか」という論調が支配的で、「そんなわけはないだろう」と思い憤慨した、という言葉があったのだが、ぼくはこの「こじんまり生きていけばよい」ということ以外、とるべき選択肢はありえなかったのだと思う。
ただ問題は、その道が現実に選ばれなかったというばかりでなく、過去も現在も、そのことが徹底されなかった、ということだ。
つまり、「アジアの片隅で、日本がこじんまり生きていく」ということがどういうことか、厳しく考えられてこなかった。
そのことが、多くの日本人(そのなかに、今の自分も含めざるを得ないのであるが)の、「与えられた日常(作り出す日常でなく)への従属」という政治的態度、「総転向」的な社会を生み出したのだ。
ひとえにそのことの結果として、沖縄の現状もある。


「こじんまり生きていく」ことを厳しく考える、とはどういうことか。
「安全保障」(嫌な言葉だ)の面においては、これは(若泉の考えには真っ向から反して)「非武装中立」ということしか有り得ないのだ。
「そんなことをすれば、たちまち甚大な危険にさらされる」と、人は言うだろう。
だが考えるべきことは、この道をとることによって、実際に他国に侵略され、多大な被害が出たとしても、それは日本が「この道をとらないこと」(つまり現実に日本が歩んだ道だが)によってもたらされる「被害」よりも、本当に甚大なものと言えるか、ということである。
実際問題、日本に米軍基地がなく、アメリカとの軍事的な連携が存在しなければ、ベトナムでもイラクでも、これほど多くの人命が失われることはなかったのではないか。
つまり、日本が選んだ安全保障や平和は、他国の人命を危険に陥れることによって形成される平和であり、日常だったと言える。
これは果たして、「平和」や「日常」の名に値するものだろうか?


なるほど、日本が侵略されることによってもたらされる被害は、甚大なものになるかもしれない。
そして、そうでなくとも、そのことによる被害と、日本が軍事的な道(つまり現在の道だ)を歩んだことによってもたらされる他国の被害とを、「二つの被害」のようにして数量の多寡を比較したりすることは、するべきでないことだろう。
どちらの被害も、「仕方ない」こととして容認されてはならないものだ。
だが現実には、われわれの「安全」を守るために仕方のない「犠牲」として容認されているのは、「他国の被害」だけなのである。
いや、そんな「犠牲」という意識すらほとんどなく、それらは無視されるか、まったくの他人事として扱われている。
そういう意識のうえに成り立っているのが、ぼくたちの日常で、故にこの日常は「冷酷無残さ」をその基調としているのだ。


われわれが生きているこの日常の平和は、残念ながら、他国の被害によってあがなわれるような平和なのだ。
それが、日米の軍事的同盟の意味であり、また日本という国が軍事力を持つということの意味である。
問われるべきなのは、自分たちの安全や安定を守るために、他人の生命を奪っても当然であるとするその基本的な感覚であり、その意味で、「軍事の論理」が徹頭徹尾日常を支配しているという、この日本の社会の特異さなのだ。
「他人の生命を決して奪わない」、このことを、あくまで最優先して考えるところにしか、われわれがこの支配から脱却し、したがってわれわれ自身の「生存」が尊重されるような「日常」を、自らのものにしていく(構築していく)糸口はない。
今こそあらためて、この大原則を確認するべき時だろう。