血の幻想、家の幻想

最近、気になった記事の一つがこれである。


(特派員メモ)「世界の子宮じゃない」 @バンコク朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASH344WNTH34UHBI01K.html


これは、非常に多岐にわたるテーマをはらんだ問題だと思うが、私が特に疑問に思ったのは、子どもが居ないけれども欲しい人たち(同性カップルや異性カップル)の何割かは、なぜ養子という方法ではなく、代理母を選択するのだろう、ということだ。
私がもし、その立場なら(しかし、独身で子どもを持つという選択も当然ありうるわけだから、いま「その立場」でないと私が当たり前のように思っているのは、ちょっと変である)、養子をもらうことを選ぶであろう。
そうではなく、代理母という選択をするということは、きっとその人たちは「血のつながり」を大事に思っているのだろう。
その感覚は、自分には分かりにくい。
儒教を批判した墨家のように、血のつながり(血統)を優先せず、他者を区別なく愛する「兼愛」の精神こそ大事ではないかと、漠然と思う。


養子をとらない、という選択について言えば、たとえばいずれは子どもに「実の親ではない」という事実を告げねばならず、それが心配だという考えもあるかもしれないが、だが子ども自身にとってみれば、それは他の考えられる人生と比べて、特に困難なものだと言えるだろうか?
むしろ、親との間で、何らかの心理的な切断を経験するということ自体は、一般的にいって、果たして「不幸」だとか「不自然」だとか考えれるべき事柄だろうか?
養子を育てることは困難だと思われるかもしれず、また実際、そういう選択をされた方は、そうした困難を経験して来られたかもしれないが、それは、それ以外の親たちが経験する(べきはずの)困難と、本当に質的に異なったものだろうか?
どうも私には、代理母よりは、養子をもらうという選択の方が、自然なものに感じられるのである。


だが、よく考えてみると、「血のつながり」にこだわる感覚が分からないという私の思いは、果たして「兼愛」と呼べるようなものであろうか?
それは、「血の幻想」によってではなく、他の方法によって他者や小さな生命を愛する、強い意志に裏付けられたものであろうか?つまりそれは、自分には理解できない「こだわり」を有していると思われる人たちに対する反感や否定の感情にもっぱら基づくものではなく、子どもや生きているもの一般に対する肯定の感情に根ざした態度だと言えるだろうか?
「実の子」に対する愛情にせよ、血のつながらない子どもや、他人の子どもに対する愛情にせよ、その根底にあるのは、生に対する深い愛情だろう。
「血のつながり」の感覚が人為的(幻想)であると感じる私は、そのときすでに、生への深い愛情を抑圧するような別種の幻想に陥ってはいないであろうか?その幻想を守るために、生や愛情の普遍性に対する抑圧を憎むのではなく、自分のものとは異質な幻想を抱いている人たちの人生(観)を否定するという方法を選んでいるのではあるまいか。
そうであるなら、私のこの幻想は、「兼愛」とはむしろ逆のものである。それは、他人と生きることや愛することの可能性を、私から奪うものでしかない。
そして、その幻想の冷淡さは、近現代のこの国のあり方に、よく似通ってはいないだろうか。


私は、10数年前から、戦前・戦中に北海道で強制的な労働のさなかで命を落とし、その地に埋められた、朝鮮人をはじめとする人たちの遺骨を発掘するということに関わってきた。
そのなかで、遺骨に対しての韓国の人たちや、また特に在日の人たちの態度や反応に接して、自分には想像の出来ないような「血」に対する強い思いのようなものを感じてきた。その遺骨との間に直接の血縁関係などないはずなのに、ただそれが朝鮮人のものであるというだけで、強い情動に捉えられている姿が、そこには見られるのだ。
だがそれは、たんなる「幻想」というものではなく、自分一個の存在と、歴史の中の先行者の存在とが、(日本における朝鮮人という、同じ歴史的現実を生きた者同士として)接続したというリアルな感覚に由来するものだったのではないかと思う。
それは人間が、歴史の中で自分と同じ境遇を生きたと想像される他者(の遺体)に直面した時に示すリアルな(現実的な)反応と呼ぶべきものであり、「血のつながり」とか「血の幻想」と呼ばれるような個人を束縛する排他的な集団性の意味合いとは異質な、他者との普遍的で具体的な連帯への萌芽のようなものが、見出せると思うのである。
そして、そうしたものこそが、私が内面化している日本の政治体制が、人々の中に露呈して来ることを最も恐れている感覚なのではないだろうか。
「血の幻想」を自分には理解不能なもの、縁遠いものとして忌避する私の「実感」のなかに、そのような政治的(統治的)な意志が密かに込められているというのは、ありそうなことだ。


こうした、私が抱いているような幻想を、どう捉えればよいだろうか。
それは、抑圧された他者の集団的な思いを「血の幻想」と呼んで否定することで、自らの安定を確かなものにしようとするような、私の同一性への欲望である。
私は、その具体的な現われを、日本の家制度というものに見る。
最近読んだ、柄谷行人の『遊動論』には、中国などでは「家族」(血縁共同体)が国家に対して自立的であり、また国家からの個人の自立を可能にするような機能を持つのに対して、「双系制」に基づく日本の「家族」においては、血縁よりも「家」という「場」の維持に重きが置かれ、「場」の存続のためには血統も個人も犠牲になって当然だというような考えが支配している、という意味のことが書いてあった。

双系制が、出自・血縁よりも「家」を、いいかえれば「人」よりも「法人」を優位におく考えをもたらしたのだ。(『遊動論』(文春新書) p153)

柄谷の説が、どこまで的を得たものであるか私には分からないが、ただ、「場」の存続のために、「血のつながり」も個人も犠牲にすることを当然だとするような冷淡さは、私にはどこか身近なものであると思える。
おそらく、こうした冷淡さの最大の代表例は、天皇制だろうが。
この日本的特性は、自由を求める個人や、連帯を模索する集団の力と感情を弱めるという、一般的な統治の要求に、それなりの仕方で適合するものだろう。
それは結局、個人が国家の論理を越えるような集団性に結びつくことを阻み、国家の論理に完全に帰属して生死を送らざるをえない状況に、私たちを追いやるシステムとなろう。
その重要な装置として、「家」という近代日本独特の制度的単位がある。
この装置が、今日とりわけ強力に機能していることは、たとえば介護や子育てに差し向けられるネオリベ化の圧力や、生活保護をめぐる同様の言説(「家族で助けあえ」)に明らかだろう。
「家」という装置に閉じこめられ、あらゆる公共性(社会保障)や自発的な集団性への回路を断たれたまま、国家の支配に一義的に帰属して生きること(あるいは死ぬこと)を、今の政治権力は、私たちに強いているのだ。
そして、この「国家=家」の論理との同一化が、私に、国家から自立的であろうとする(そうあらざるをえない)人たちが抱く集団的な感情や「幻想」への、非難を行わせるのだろう。だからそれは、個人の自由に根ざし、また「兼愛」というような普遍的なベクトルを持つものではなく、政治的な抑圧と排除の色合いを強く持つ心性だと思う。


とはいえ、「血のつながり」に対する抑圧された人たちの感覚が、本来の生に対する深い愛情から離れて、何らかの閉鎖性や硬直に陥ることは、もちろんありうるだろう。
だがそれは、根本的には、その人を捉えている現実の歴史の暴力が、それを強いるのである。その暴力の一つの形態が、愛情の現われでありうるものを「血の幻想」という蔑視的なレッテルによって封じこめてしまう、私のようなマジョリティの眼差しの、政治的な冷淡さであろう。
その閉じられた箱を自ら開くのは、もちろん当人の自由なのであるが、それをあえて開きにくくしているのは、外側に居るわれわれの方なのだ。
結局、私のような者の、「家」という幻想が、この社会を覆い、マイノリティを抑圧している。そして、その抑圧行為それ自体によって、私自身を普遍的な生から引き離しているのである。