清荒神と宇多天皇

日曜日、衆議院選の投票を済ませた後、ちょっと買うものがあって清荒神に行ったのだが、山頂の境内にある史料館という建物で、清澄寺の歴史についての展示をしてるというのを知って、足を伸ばして見に行った。


北摂阪神間以外の人には馴染みがないだろうが、ここは清荒神清澄寺といって、「荒神さん」をまつる神社と、清澄寺という真言宗のお寺が一つになっている宗教法人なのだ。こういう形式のものは、全国でここしかないと聞いたことがあるが、どうであろうか?
それで、この展示は、そのお寺の方の歴史を紹介する内容だった。
展示品の中では、南北朝時代の作という「不動明王童子像」という絵が、これは特に文化財などには指定されていないようであるが、とても良かった。不動の方は、塗料が剥落して表情が分からなくなってるのだが、下に描かれた二童子の表情がとてもよく描けている。
また、今は京都の博物館に預けられていて現物が寺に無いのだが、渤海の人ではないかと言われている仏絵師の書いた絵の写真が展示されていたのも印象に残った。こういう(今で言う)国際的な人の流れやつながりというのは、今はほとんど伝えられていなくても、各時代にあったのだろう。
このお寺は、平安時代の初め、896年(寛平八年)に宇多天皇の勅願により創建されたそうである。
これまで、どうも由緒がよく分からなかったのだが、そんなに古い歴史があったとは、少し驚いた。その後、源平の争乱の時や、戦国末期の荒木村重の挙兵の際など、何度か兵火に焼かれたらしい。わざわざこんな山の上まで登ってきて戦をしたというのは、いま考えると奇妙な気がするが、それだけ政治的にも軍事的にも重要な意味のあった所なのだろう。
さて、この宇多天皇という人についてだが、こちらの専門家の方の講演が大変参考になる。
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/997/1/shigaku_42_243_251.pdf

これを読むと、藤原家の摂関政治による支配から、政治の主導権・主体性を天皇の側に回復しようとしたしたということや、また文芸をたいへん好み、尊重したということ、そして仏教、特に真言宗を含む密教との深い関わりといったことが述べられている。
このうち、第一の政治的側面は、対立した相手が貴族と武家の違いはあるとはいえ、「天皇」の権力の回復を目指したという点では、後年の後醍醐や後鳥羽の動きを思わせるところがある。宇多天皇が、戦前から高い評価を得てきた一つの理由だろう。
名高い菅原道真の登用・重用も、藤原家のようなエスタブリッシュメントや、それと結びついた富農層を牽制して、天皇に権力や財を集中させようという動きの中でなされたものと考えられるのである。
だが、結局この試みは、藤原家の権勢の前に敗北し、周知のように道真は失脚して、怨霊伝説の主役となる。道真は宇多天皇と共に、エスタブリッシュメントに支配された国の持続的権力に対する民衆の怨嗟を象徴しつつ回収するような存在になっていくのである。
たしか『神皇正統記』では、宇多天皇の文芸を好んだ性質に大きなスポットがあたっていたので、こうした政治的側面については今まで知らず、イメージが変った。
また、密教との関わりということも興味深い。このあたりの北摂の山系は修験道との関わりを思わせるところがあるのだが、密教修験道は密接に結びついてるらしいので、宇多天皇がこの場所に勅願寺を建てたのは、うなづけるものがある。