前回への補足

前回書いたことに、一点だけ補足します。


今回の「反日デモ」に対する、運動内部からの(かりに、こう言っておきます)批判として、「なぜ仲パレと同日同時刻にデモをぶつけたのか」とか、「仲パレに参加しながら、自分たちの主張を表現すればよかったではないか」といった意見がある。
僕は、こうした意見が出るのは、このデモの意図するところが、よく理解されていないからではないかと、思う。ここでは、便宜上、特に後者の意見(仲パレに参加しながら、批判を行えばよかったではないか、ということ)に関して書いてみる。
あくまで僕の考えだが、このデモが、仲パレに対する批判として発している重要なメッセージは、おおまかに言って二種類ある。
一つは、仲パレが、植民地主義に代表されるような、日本の政治や制度、あるいは社会における根本的・構造的な問題への切り込みを行っていない、もしくはあえて禁じているように思われるので、そのことへの批判ということだ。また、それに関連して、仲パレが、警察の警備に代表されるような、権力の行使に対して順応的であると思われることへの批判もあろうかと思う。
これらのことに対する批判ならば、「仲パレに参加しながら、批判を行う」ということが、確かに成り立つだろう。


だが、このデモのもう一つの主張として、「小さな差異や、小さな差別には目をつぶって、大きな目的に向って団結(参加)しよう」という傾向・圧力への抵抗、拒絶ということがあると思う。
ここで「小さな差異」とは、たとえば上に書いたような植民地主義などをテーマにするか否かということや、権力との対立をどの程度に考えるかという違いなどである。また、「小さな差別」とは、仲パレと密接な関係にあると思われる「しばき隊」系の人たちがネット上で行ってきた差別的言動などがあげられるだろう。右翼的な人々の関わりということを、ここに加えてもよい。
このデモは、こうした「小さな差異や小さな差別には目をつぶって、大きな目的(良き市民社会の回復とか)のために一体となる」という姿勢を、本当の連帯ではなく、差異を押し潰して大きな動きの中に運動と諸個人を回収してしまおうとするものとして、反発しているのだと、思うのだ。この「大きな動き」(国民的・市民的運動)への回収ということは、それが権力への順応という要素を帯びるなら、体制に都合の良い運動、体制内運動への回収という性格を持つことになろう。僕はこれを、運動のファシズム化と呼びたいのである。
こうしたことへの危惧は、仲パレに協力している運動系の人たちの中にも、ある程度共有されていて、その上で、それに対処する考え方や方法の違いということがあるのではないかと思っているのだが、それはともかく、この「反日デモ」は、こうした「大きな運動」への統合の傾向と圧力(社会的な風潮)とに対する、批判であり抵抗という側面を持っているというのが、僕の考えである。


だとすると、こちらの側面における批判というものは、「仲パレに参加しながら行えばよい」と簡単に言うわけにはいかない。なぜなら、ここでの最も強い、明確な表現は、自分がそうした「大きな動き」(仲パレ)に参加しない、ということだからである。
「大きな目的のために、小異やこだわりを捨てて、ここに参加するべきだ」という無言の圧力(それは、大義や倫理の為の大きな行動に、なぜ協力しないのだ、という形をとるだろう)に対して、「自分の中の大事なものを犠牲にしてまで、大義のために参加する必要はない」ということを伝える、最も強い表現は、自分が態度(参加しないこと)によって、そうして見せることである。
もし参加してしまったならば、そして、その上で自分たちの主張を行うとすると、言語以前の、態度・行動という基本的な部分では、こうした統合的な運動のあり方を容認していながら、言葉の上でだけ、そうした運動のあり方を批判するという、自己矛盾的なメッセージを発することになるだろう。
それでは全く無意味だとまでは断定しないが、ただ、このことに関しては、「あえて参加しない」という形によってだけ、明確に伝えられるものがある、とは言えると思う。


ところで、行動や態度が発している基盤的メッセージと、言語によって発せられるメッセージとが矛盾するという、この現象は、心理学でいう「ダブル・バインド」に似ている。
ダブル・バインドとは、たとえば、母親が幼児に向って、微笑みを浮かべながら、同時に、虐待に近いような叱責を行う、という状況である。これをされると、幼児は、基盤的な部分(表情)のメッセージと、言葉によって伝えられるメッセージのどちらを信じてよいのか分からなくなり、酷い混乱に陥っていく。
これは、たんなる欺瞞や曖昧性ということとは違う。
母親と幼児の関係を例に引いたことからも分かるように、これは「非対称的な関係の強制」ということに関わっているのである。
僕は、この「反日デモ」の人たちが希求した「明確さ」とは、そうした混乱状態がもたらす、支配と抑圧からの解放だと思うのだ(前回の文章で、僕が「抑圧」とか、それからの解放と書いたのも、このことに関わっているのだ)。
実はこれが、上記の統合的な運動(国民運動や、市民的連帯)というものの持つ、最大の暴力性にも関わっている。そうした運動の中では、すべてのものが、一見平等に包摂されているようにみえるが、「小さな差異」や「小さな差別」への「こだわり」は捨て去ることが強いられているため、結果としては、強者による支配が維持される。
この強制は、明示的な形をとるわけではなく、たとえば、次のように言うのだ。

わかった。あなたの異議はすべて認めよう。でもそのことは、この大義のための運動に参加した上で語りなさい。

こうして、異議を唱えようとした人は、非対称的な関係の中に再び閉じ込められてしまう。


この「反日デモ」を企画した人たちについて、閉鎖的(党派的)であるとか、(良い意味の)曖昧性を否定している、という批判がされ、印象が持たれることがあると思うのだが、彼らは硬直した、柔軟性や曖昧性を認めない態度をとっているというわけではなくて、この「非対称的な関係の強制」に対して抗っているのだというのが、僕の考えである。
これは、植民地主義その他の問題に劣らず、またそれらとも密接に関わって、重大な問題の提起だと、僕は思う。
運動の大きな場面としては、3・11以後に顕在化してきた問題ではあるが、もちろん、根はそれよりずっと深く広い。いま、その根の上に、ファシズムという暗黒の森が広がろうとしているのだが、誰もが、その枝や葉を払うだけではなしに、根を自分自身の中に探って除去しなければならぬ。私もまた。