最近の運動について

昨年11月に大阪市の瓦礫受け入れ説明会会場で不当逮捕された人たちの公判が、九月の三日と四日に予定されている。

http://blog.goo.ne.jp/kansai-dan/e/356f4fccb623aa3b4593f56640594fd8


このうち、現在も拘置所に閉じ込められたままであるUさんとは、僕はあまり話をしたことはないのだが(どうも苦手なタイプで、むしろ避けてきたところもある)、とても印象に残っていて、しょっちゅう思い出す彼の言葉がある。
今日はそれについて書くことからはじめたい。

https://twitter.com/FREE_U_



それは、ある目的に向かって多くの人がそれぞれ運動をはじめると、たちまち「あの方法はよくない」「こちらの方が有効だ」という風に言い合いになるが、これは良くないということである。
それは、福島の原発事故の直後に、それまで運動とも原発被爆の問題とも無縁だった人たちが、それぞれに動き出そうとしていた頃、ある会場で、やはりそんな言い合いが過熱しかけていた時に、Uさんはそれを諌めて、「そういう失敗は、運動はずっと繰り返して来てますから、マネしないでください」という風に言ったのだ。
そして、なるべく「あのやり方もいい」、「この方法もいい」という風に考えて行動してほしい、ということを言ったのだった。


これは、すべての行動に参加しないまでも、少なくとも互いに妨害したり否定したりせず、尊重し合ってお互い行動していこう、というような意味だろう(実際、Uさんのスタイルはそんな感じだ)。
こうしたことは長く運動をやってきた人にとっては、一番気を付けるべきこととして身に沁みこんでいることなのだろうと思う。
今、ネット上でのやり取りを見ていると、「あのやり方では運動としての勝ち目(実効性)がない」だとか、逆に「あれでは問題の本質に切り込めない」というような、他人の方法への否定から入る物言いをよく目にするが、それは互いの立場を尊重するという基礎の上に立った批判であればむしろ大事なことだろうが、攻撃のための攻撃のようなものになってしまったのでは、あまりに不毛だと思う。


ただ、同時に思うのは、批判したりする議論するということと、他人の存在を否定することとは違う、ということだ。
多くの場合、するべき批判や議論をあえてしないことは、実は他人に対する否定を意味している。その議論が、ときに過熱することもあるのだが、その過熱自体の根っこがどこにあるかということ、それが他人を根本では肯定するという気持ちに基づいているのか、あるいはそういう気持ちを忘れて否定のための否定になってしまっているのか、それを見極めることも大事なのだ。


これは、運動内部の言葉の応酬に限らないことで、いわゆる(ヘイトスピーチに対する)カウンター行動の現場でも、在特会などに対して対抗的に激しい言葉が用いられることが、「それでは差別者と同じではないか」などと、議論の的になったりする。
たしかにそういう批判も必要ではあろうが、重視するべきことは他にもあると思う。それは、カウンターの人たちの激しい言葉が、本当に差別(ヘイトスピーチ)に対する対抗の表現、人間的な怒りの表明であるのか、それとも目障りなものや、秩序や安定の感覚を脅かすものを罵倒し力づくで抑え込んでしまおうという一般的な欲望の、ひとつの表出にすぎないものになってしまっているのか、その点を、カウンターに加わっている人自身や、それを批判する人たちが、よく考えるということである。
もし、知らぬ間に後者の方に流れてしまっている場合があるなら、それはファシズムの芽であるというしかない。
これはもちろん、カウンター行動を批判する側の物言いに関しても、同じことが言えるわけである。罵倒や激しい言葉は、それ自体の暴力性もまったく看過されてよいというわけではないが、その根本のところに相手の存在に対する肯定をはらんでいるかどうかを、いつも気にかけることは、もっと大事だと思う。


最近の運動の傾向を見聞きしていて気になるのは、考えの違う他人をあたまから排除したいという否定的な気持ちに、いつの間にか流されてしまっている場合が多いのではないか、ということだ。
例えば上に書いたような、出来るだけ多くの行動を否定することなく協力したいという気持ちから、様々な場に参加して行動している運動家の人を、「あれはどこそこの党派だから」というようなことを理由にして排除する場合もあると聞くが、これは、過去にそういう政治的な主張を持った人たちの介入によって辛い思いをした人たちが居ることに留意しても、やはり残念なことだと思う。
また、もっと一般的に、デモや集会の場で、大枠の趣旨には叶っているはずなのに、特定のテーマについては発言が許されないこともあると聞く。最近では、東京などの反原発運動のなかで、がれき問題や避難の問題が、主張を制限される場合もあると聞いた。
「ワンイシュー」と呼ばれる方針にも、一つの理はあると思うのだが、運動を実効性のあるものにしようとする気持ちのあまりに、少数意見や大事な問題提起を抑圧する傾向が生じてはいないだろうか。いや、もっと言えば、自分にとって異端のように思われる主張や、そういう主張をする人たちの存在を、否定し排除したいという欲望に、運動してる人たちが取り込まれてるのではないか。
もしそうだとすると、これは運動がファシズムに飲み込まれてしまいかねない事態だと思うのだが、杞憂だろうか?
運動というのは、やはりイベントのようなものとは違うはずだ。動員数とか効果という事柄は、(差別をなくするというような)目的にとっての一つの目安であって、その達成のために別の抑圧や攻撃が発生したり、正当化されるのであれば、本末転倒であろう。
運動がそういうものに変質することで、得をするのは誰なのか、よく考えてほしい。


これは、反原連なりしばき隊なり、特定の人たちだけに文句を言いたくて書くわけではないのだ。運動のファシズム化ということは、どこにでも、誰にでも起こりうることで、たとえば山本太郎氏の存在も、当人や、それ以上にそれを支えるべき人たちの態度がひとつ間違うなら、たちどころにそういう危険を生じるものだと思う。
もちろん、左翼的な運動であっても、それは例外ではない。要は、相手の存在の否定をはらんでしまうような運動であってはいけないということだ。まして、目障りな他人の存在を否定し排除したいという、僕たちの欲望を巧妙に取り込む形で大きな権力が目的を遂行していこうとする、今のような社会においては。


僕は、先日大阪で行われた「仲良くしようぜ」パレードに参加したのだが、その時には、反差別という気持ちは共有しながらも、パレードの趣旨に全面的には賛同しかねるという人たちも少なからず参加し、自分たちなりの考えを示すプラカードなどを掲げて行進するということがあったようだ。
それについて、主催の人たちから何か統制するようなことがあったという風には聞いていない。
これは、反差別という趣旨から考えても、たいへん望ましい形だったと、僕は思っている。
9月には、東京で同じような趣旨の行動が予定されているようで、僕も応援したい気持ちではあるのだが、主催したり支持する側も、それに異を唱えたい側も、相手の存在を否定するような気持ちに流されることのないように、心掛けてほしいと思う。