吉本隆明氏の死

吉本隆明氏が亡くなった。


ぼくがはじめて吉本の本を読んだのは、短大に入学した1980年頃、カバー付きの『共同幻想論』を、まったく理解できないなりに読んだときだったのではないかと思うが、当時吉本は完全に「過去の思想家」という印象だった(「詩人・吉本」はそれ以上に忘れられた存在だった。)。
その後間もなくして、角川文庫から『共同幻想論』、『言語にとって美とはなにか』、『心的現象論序説』といった主要著作の出版があり、吉本リバイバルのような状況になったと記憶しているが、実際にはその後一度も、吉本は「現役の思想家」たりえたことはなかったと思う。
もっともそのことは、彼が日本の戦後の思想のあり方の一面を体現するような人だったことと矛盾しないだろう。ある時期以後の(この「ある時期」というのが、ぼくには定かではないが)吉本の文章や発言の無力さ、無残さが、そのまま日本の戦後思想の無力さ、無残さを表わしており、それはぼくら自身の姿とも重なるところがあるはずだと、ぼくには思える。


また、新聞やネットの見出しをみると、「ばななさんの父」という言葉が目につくが、これは市井の生活者、日本の戦後に固有の「家庭」や「家族」における父という存在を、一貫して自分の思想家としての立ち位置にしようとしていたであろう吉本にとっては、好ましい形容のされ方と言えるかもしれない。
その意味では、近現代の思想家というより、近世の市井の学者、という感じに近い人だったのではないか。そこに偉さと、また限界もあったように思う。


思潮社から出ている現代詩文庫の『吉本隆明詩集』(1968年出版)には、川上春雄による「年譜断片」というのが載っているが、そのなかに1960年の安保闘争の最中の、次のような吉本の姿を伝える記述がある。その人となりや存在の一端が、よく伝わってくる気がするので、引いておきたい。

一月二十八日、全学連野外集会、東京清水谷公園。国会デモ逮捕学生を代表して清水丈夫、文化人から羽仁五郎、そして吉本隆明が挨拶に立った。話の内容は他の二氏の激しさ、華麗さにくらべて、非常に短く「<私は詩人であり・・・・詩人とは役にたたないものであり、本来このような所で語るべきものではない・・・・私は諸君らの闘いを尊敬している・・・・からだを大切にして、最後まで闘ってほしい>と、こんな主旨の話をされたことを記憶しています。吉本氏の静かな、朴訥な話しぶりと暖かさ、そこに感じられた詩人としての自覚の清潔さ、深さは学生に特別な感興を与えたようです。一二〇〇名位の学生は比較的暖かかった日ざしの中で小石をしいた会場に円くすわってきいていました」(加藤尚武の文による)。
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