森銑三『渡邊崋山』

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森銑三の『渡邊崋山』は、もともとは戦争の時代に上梓された本だが、きわめつけの「名著」だと思う。


その叙述は、これほどの精緻で正確な日本語で書かれた文章を、他に知らないと思うほどである。むろん、この評価自体が、何らかの排他性をはらむかもしれない。だが著者のその努力には、深い敬意を払うべきものがある。
この本がなければ、多くの人が知ることも出来ないような、崋山の日記の現代語訳が豊富に記されている。それらを読むことで、崋山という人の人となりと、その生活が、細かい部分まで感じられてくるのである。


日記を読んでいて意外に思うことのひとつは、彼が大男だったということだ。江戸の大火で友人の絵描きの家が焼けたとき、火のなかに飛び込んでいって、風呂敷にその絵描きの絵をまとめて包んで担ぎ、絵描きの手を引いて脱出させる、ということがあったそうだ。
これは、いかにも崋山らしい逸話だという気がする。
だが、さらに印象深いことは、謹厳で実直なイメージのある崋山が大酒呑みだったという事実である。それも、短い生涯を極度の貧窮のなかで過ごした崋山には、おそらく自宅で酒を購う金が無かったためだと思うのだが、友人や知人の家を巡って夜毎に遅くまで飲み歩き、酔い潰れて帰ってくるということがよくあったようである。
それを読むと、崋山の苦労と真面目さと鬱屈のようなものが想像され、たいへん気の毒な気持ちになる。


崋山は、田原藩という小藩の家臣の家に生まれたが、はじめは儒者を志したものの、両親を助けて一家の生活を支えるため、早い時期に画家志望に切り替えた。
若い頃の日記を見ると、毎日絵や本の書き写しばかりをやっている。
絵の模写は、修行のためということもあるが、旗本や絵の師匠などから、お金をもらって絵の模写を作る仕事をやってたのである。つまり、生活のためだった。
若い崋山は、修行としては、未明に起きて遠方のお寺まで出向き、有名な絵を模写させてもらったり、ということもしていたようだ。
「什物」といって、お寺やお屋敷の秘蔵の品物を、普段は見られないのだが、虫干しをする日に、その場所まで行って書き写させてもらう、ということもしていたようだ。
ともかく、ものすごく努力していて、睡眠時間もあまりなかったらしく、また栄養の不足からか、始終病気になって寝込んでいる。
身内も相次いで若死にし、崋山自身も結局、弾圧による冤罪のため流刑同様の暮らしの中で、非業の自死を遂げる。享年49歳。
当時としては、とくに若死というわけでもないかもしれないが、やはり悲痛な印象の生涯だ。


その最期について、森銑三はこんな風に書いている。

なお『全楽堂記伝』には、その後に崋山の遺書数通を掲げて、「永訣書は、十月十日認められたれども、翌午に自尽せり。是は其夜折節老母終夜安眠せざりし由なれば、期を失したるなるべし。翌日も母を安慰しては、又其目を忍ばんとせし趣なり。義を見て決したれども、孝子の母に別るゝ心如何なりけんと察せらる。時に年四十有九歳也」と記している。老母を後に残して自尽することを思う時、崋山の腸は寸断せらるる思だったであろう。然も義の存するところ、断乎として非常の挙に出づる。崋山の崋山たるの所以はそこにあったのである。(p25〜26)


名文だが、この文章が戦争の時代に書かれたものだったことは、忘れてはいけない。
だがそれにしても、ここには今もあまり変わらない、日本の社会の特質みたいなものが現れてるようにも思う。
崋山には妻子もあったのだが、森がとくに書いているのは、「老母」のことなのである。母親と息子の関係が、社会の大きな秩序のなかで、ある種特権化されてるような印象も受ける。そのことが、ぼくが崋山の生涯に感じる重苦しさの印象と関係してるのだと思う。


だが崋山の魅力は、その真面目だけではない人柄、人間味にあったのだろうと思う。
絵描きとしての崋山、とくに市井の人たちの姿を描いた漫画のような絵の生き生きした筆致や、小さな動物たちをスケッチした彼の絵が、ぼくはたいへん好きである。
崋山の描く動物や魚や虫たちには、妙な言い方だが、どこか人間味がある。といってもそれは、ヨーロッパ中世の動物と人間を混交させたような絵画とは違っているし、鳥獣戯画のようなものとも少し違う。
ただ彼は、オランダなど西洋の絵画の強い影響も受けて、こうした画風を形成したのである。


最後に、崋山の人柄をもっともよく伝えていると思われるエピソードを紹介したい。
滝沢馬琴は、崋山をたいへん可愛がったのだが、馬琴の息子で崋山とは絵の同門であり親友だった琴嶺という人が、38歳で亡くなった時の逸話である。
なお、文中に引かれている馬琴の文章のなかで、旧漢字のため表示できないものは【 】のなかに読みだけを記した。ご了承いただきたい。

崋山と同じく金子金陵に画を学んだ馬琴の一子琴嶺は、天保六年の夏に歿したのであるが、その危篤に陥った時に、馬琴は崋山にその肖像の作成を請うた。然るに書簡は後(おく)れて達した。崋山が主用で他へ赴く途中に駕を止めて立寄ったのは、既に琴嶺の歿した翌日の申の刻(午後四時)だった。崋山はその死を悼み、特に請うて遺骸を見、半時を費して枯相を写生した。そしてその日は怱々に辞去したが、やがて琴嶺の肖像を作って馬琴に送った。
 馬琴は『後の為の記』の中にその顛末を詳述して、「此挙【まこと】に千金也。抑(そもそも)崋山子初め画を金陵老人に学びしかば、琴嶺と同門にて、総角(あげまき)より相識られたり。其後一家の画風を興して、古画の鑑賞に詳(つまびらか)也。且人の為に肖像を画くに、をさをさ蘭法により、鏡二面に照してその真を【と】るを以て、【いづ】れも似ずといふ者なし。こ【こ】を以て肖像を求むる人多しと聞ゆ。只画の上のみならず、学術あり見識あり、其性も亦毅剛なるべし。【さき】にある人の席上にて、主人の薦むるまに【まに】髑髏盃にて酒を飲みし事ありと聞く。か【か】る本性にあらざりせば、よく枯相に手を触れて、骨格を写し得んや。【まこと】に友は持つべきものぞと思ふ。感心のあまりになん、此大略を書すのみ」としている。まことに友は持つべきものぞと思うの一句に千金の重みがある。(後略)(p113〜114)