手段と目的

先日古本屋で『清末政治思想研究』(小野川秀美著 昭和44年 みすず書房)という本を買ったのだが、その最後の章が「劉師培と無政府主義」という題になっていて、面白そうなのでそこから読み始めた。


以前に読んだトウ小平の伝記にも、トウが留学していた頃のフランスの中国人留学生の間では、コミュニストアナキストの勢力が拮抗していたというようなことが書いてあった。
これはちょっと意外だったが、考えると毛沢東も何かアナーキーな感じがある。(大昔の)道教による民衆運動だとか陽明学左派だとか、中国の思想史の流れを考えると、もともとそういう土壌があったようにも思うが、よく分からん。
それでこの章を読むと、1900年代初め頃の中国(清国)における無政府主義の主張や動向が詳しく書かれていて、たいへん面白かった。その代表者は劉師培という人で、非常に斬新な主張を行った人のようだが、幸徳秋水堺利彦北一輝などともつながりがあり、特に幸徳との結びつきは深かったらしい。
全容を紹介するのは骨が折れるので、ここでは特に感心した一つの言葉についてだけ書いておきたい。


当時の清国ではバクーニンの「虚無党」の思想、暴動と暗殺という二つの破壊的手段によって政府に敵対するという考えが、かなりの共感を得ていたそうである。

蔡元培は、革命には暴動と暗殺の二つの方法しかないことを感じ、愛国学社で軍事訓練を通して暴動の種子を植え、暗殺は女子に適するとして、愛国女学校であらかじめ暗殺の種子を植えようとした。(p348)


こんなところは今だと、「女性をテロリストとして要請してる」と非難されそうだが、しかし武田泰淳の『秋風秋雨人を愁殺す』でも有名な秋瑾女史に代表されるように、革命家、行動者としての女性の地位は、当時の中国では非常に高かったのではないかと思う。
これも何か伝統が背景にあるのかも知れないが、同時に、政治運動の世界では男女同権的な考えが急速に台頭していたのではないか、とも思う。上に書いた劉師培という人の夫人も何震という有能な革命家だったようである。
まあそれはいいのだが、ぼくが感心したというのは、次のくだりだ。

また虚無党の手段は、革命派だけでなく、改革派にもこれを肯定するものがあった。梁啓超は、「虚無党の手段には自分は敬服している。その主義には敢えて賛同しない」、と述べた。(同上)


この梁啓超という人は、たいへん有名な人だが、先ごろドラマ化されてNHK地上波でも放映されていた浅田次郎の小説『蒼穹の昴』の主人公の一人、梁文秀は、この人をモデルにしてるそうだ。
その梁啓超は、「虚無党」の強い影響を受けた革命派とは厳しい対立関係にあった改革派のリーダーだったが、それでも虚無党の「手段」に敬服していると語った、というのである。


この言葉になぜ感心したかというと、革命といい改革という路線の(妥協できない)違いはあっても、同じ方向を志向するなかで、「手段」というものを重視する姿勢がうかがえると思ったからだ。
ぼくたちはよく、「目的はいいんだけど(共感するけど)、手段がよくない」という言い方をする。そういう言い回しが眉唾だと思うのは、そこでは、手段(行動)というものの地位が貶められて、目的(観念)に従属させられてるからだ。
つまり、「目的はいいんだけど、手段がよくない」という言い方は、多くの場合、事柄を観念の領域に限定して、行動による現実の変化を抑圧する、行動の意義を貶めることを、その密かな狙いとしていると考えられる。
ところが、革命にせよ改革にせよ、それらは要するに行動(手段)の領域の事柄に他ならないのだ。


革命(改革)とは、まず行動(手段)の問題である。
だから決意と勇気をもって、ある行動がなされたなら、それが破壊的であるように見えても、基本的に同じ方向に立つものである限りは、まずその行動(手段)に敬意を表することから始める。
そのうえで、対立すべき自分の思想(観念)を、すなわち真の差異を明確にする。
梁啓超の言葉からぼくが感じとるのは、そういう基本的な態度であり、それこそが革命や改革を口にしたり願ったりする者の、あるべき態度であろうと思うのだ。


一人一人の思想的な差異は大きくとも、少なくとも当時の中国には、こうした行動への敬意に根ざした本物の革命家や改革者が満ち溢れていたのだろう。
今の日本の状況を考えると、まったく羨ましい話である。