瓦礫受け入れ問題を考える

『「災害廃棄物を東京で焼却すること」について』(今日、考えたこと)
http://tu-ta.at.webry.info/201111/article_4.html



この災害廃棄物(瓦礫)の引き受けの問題は、ぼくにも答えの分らない問題だ。
言えることは、東京や大阪など、各地が汚染された瓦礫を引き受けないことによって、福島では、汚染のなかで暮らし続ける人たちが存在し続ける、被曝の危険性が、より一層増すであろうということ、その事実を直視するべきだ、ということである。
だがそれは、東京などが、瓦礫を引き受けるべきだ、ということではない。
ぼくは、小倉さん(たち)の主張には、やはり同意できない。


ではどうするのか、被曝の危険のなかに、福島の人たちを置き続けるのか。
答えに窮するのだが、しかし同時に思うのは、こういう問いそのものが、原発という不正義・暴力によって、ぼくたちに押し付けられた、まったく不当な問いだ、ということである。
「瓦礫の引き受けを拒む」ことと、「福島の人たちの被曝を憂慮し、反対する」こととは、本来なら同じ意味合いを持つ主張である。
それが、相反する事柄のように置かれているという現状が、原発の持つ政治的な暴力性を示している。


だから、福島以外の場所に住むぼくたちは、今はまず、瓦礫の受け入れという形をとって強要される「リスクの分担」に抗うことで、原発の存在そのものにNOを突きつけるべきだ。
それは、福島が受けた打撃の大きさを、本当に国や電力会社に認めさせ、責任をとらせる、償わせる、ということに通じる。






だが同時に、ぼくたちは、福島という土地で暮らし続ける人たちが居るということ、その人たちは被曝の脅威のなかでこれからも暮らし続けるのだということを、直視しなくてはいけない。
具体的に書こう。
福島などからの瓦礫(災害廃棄物)の受け入れに反対する人たちに、瓦礫が被災地に置かれ続ける状況をどう考えるのかと尋ねると、放射能に汚染された土地に人が住み続けることは、本来あってはならないことであり、情報開示や行政のまともな対応などによって、全ての人々の移住がなされるべきなのだ、という答えが返ってくる。
たしかにその通りだろう。
チェルノブイリの時のように、強制的にでも移住がなされれば(今の日本では、逆の強制が行われているとも思えるが)、被曝を防ぐという観点からは、もっとも望ましいのかもしれない。
だが現実には、汚染された土地に、住み続ける人たち、住み続ける選択をする人たちが居る。その理由は、「移住するな」という強制や、生活面などのやむをえぬ事情、郷里への愛着など、様々であろうが、ともかくそこに住み続ける人が居るという現実には、変わりがない。
チェルノブイリの場合にも、強制移住後に村に戻って暮らしたり、他所からあえてそこに移り住む選択をした人たちも居たのだ。
この、現実にそこで生きていく人たちの命と健康について、われわれは強い関心を持ち続けなければいけない、ということである。


「一人でも多くの人を移住させる」という方針は正しいであろうが、それでも必ず、移住せず、そこに残る人も居る。
全ての外的な条件(情報や行政の対処、生活面など)がクリアされたときに、それでもなおそこに住み続ける選択をする人が居たとして、その人はいわば「自己責任」でそこに残ったのだから、被曝についての責任を、ぼくたちは負わなくてもいいだろうか?
そんなはずはない。
われわれは、被災し、被曝した全ての人たちに対して、同等の倫理的な責任を負っているはずである。
そこで線を引かない、瓦礫の受け入れを拒むという行為(それは正しいと思う)の結果として、被曝の危険性が増してしまうであろう他人の存在をも、意識から消し去ることなく、関心を持ち続け、よりより対応を考え続ける。
それこそが、国や自治体や企業によって押し付けられる「分断」に抵抗することになるのではないだろうか。


これは決して、「リスク(被曝)を分かち合え」ということではない。
先にも書いたように、リスク(の分担)の押し付けに反対し、被曝から自分や家族、また子どもたちや弱者の健康を守ろうとすることは、元来、福島の人たちのために行動することと、ひとつながりのことであるはずだ。
このリスクを受容することからは、原発に対するNOを言うことは、したがって原発を維持し続けようとする体制を変え、福島の人たちを原発という差別的な存在から解放することは、決して可能にならないだろう。


だが、その原発体制(リスクの分かち合いを通して、原発への容認を社会に根付かせようとする権力)に対する抵抗と同時に、その同じ抵抗のもうひとつのあり方として、ぼくたちは、「移住する選択をした(しようとしている)人たち」と、「住み続ける選択をした人たち」とを、分かつことなく配慮し、想像する心を持つべきだと思う。
それは、たとえば瓦礫の受け入れ拒否という正しい行為が、他人の被曝の危険を増大させるかも知れないという事実への直視を迫るものだけに、苦しい心の態度だろう。
だがその苦しさに耐えることによってしか、「原発」や「分断」を強いてくる不当な力の外に、本当に出ることは出来ないのではないかと思う。