郭沫若・日本の旅

随行記 郭沫若・日本の旅

随行記 郭沫若・日本の旅

一番私どもに感銘を与えたのは、変化といえば変化ですが、人間と人間の関係、われわれとあなた方との間の感情が昔と違ったような感じがします。それは一番深く私に感銘を与えました。
 学生時代、それから亡命の時代は、先生もご承知の通り、私の国が悲惨な運命に陥っている時代ですから、非常に肩身が狭かったのです。学校の先生からは愛され、同窓の間に友達もたくさんありますけれども、お国の方一般からは、これは無理もないですが、疎隔があったのです。もっと率直にいえば、軽蔑しているというようなところがありました。ところが今度来ると、そういうところが違ったのです。兄弟のような感じです。ことに田舎に行くと、ほんとうに真心を表して歓迎してくれて、とてもなつかしく、親しみを感じました。
 (中略)それで私どもの共通した感じは、まず第一に感情です。感情の表れが昔と確かに違う。(p223)


1955年12月、政治家・文学者・学者として高名な郭沫若は、日本学術会議招請された中国代表団の団長として、日本を訪れる。
1937年、盧溝橋事件勃発の報を聞いて、千葉県市川市の自宅を妻子にも告げずに後にし、密かに中国に帰って抗日戦争に身を投じて以来、18年ぶりの日本訪問だった。
当時、通訳として郭沫若に同行した著者による、このすぐれた回想録には、郭の生き生きとした姿や言葉と共に、彼の来訪を熱狂的に歓迎した当時の日本社会の雰囲気が描かれていて、たいへん興味深い。


冷戦下、日本と国交のなかった共産主義国の要人の訪問であるにも関わらず、各地の講演では何千という人たちが集まって熱い拍手を送り、閣僚や知事、各界の要人が行く先々で代表団を手厚くもてなす姿は、今日の日本の状況からは考えられないもののようにも思える。
この背景には、各界の有名人から、市井の庶民たちまで、郭が二度にわたる長い日本滞在生活のなかで培った交流というものもあるのだろう。
実際、郭沫若の「再訪」を大々的に歓迎して迎える日本の人々の姿からは、当時は今よりも理想化されていたアジアの社会主義国への興味や憧れ(それらは単純に美化すべきものではないが)と共に、同じ文化圏(東洋)に属する「旧友」である文化人への懐かしさを心の内に抱いていることを感じさせるものだ。


郭沫若自身も、とりわけ旧知の人々との再会の場面などでは、そういう一人の「友人」、あるいは「文人」として振舞っている。
自分の国や、自国の人々が日本の侵略によって負わされた被害の甚大さ、そして彼自身が長年受けた日本の警察による迫害などを口に出すことなく、懐旧の情と、恩を受けた日本の人々への礼節をひたすらに尽くそうとする郭沫若の姿に、読む者は容量の広い「文人精神」とか暖かい人間性を感じとって、素朴な感動を覚えるだろう。
自身をはじめ多くの中国の青年たちをマルクス主義の道に導いてくれた故河上肇邸への訪問、学恩を受けた内藤湖南や狩野君山ら日本の学者たちの墓への墓参、たまたまこの時の訪日の前日に急逝した大山郁夫の追悼会への出席、日本に残した妻子を戦前・戦中の厳しい状況下にも関わらず支え続けてくれた岩波茂雄の墓参と遺族たちとの会見。
なかでも印象深いのは、九州帝大留学時の恩師、中山博士が病床にあることを知り、殺人的なスケジュールの中を急遽見舞いに行くことを決めたときの、郭沫若の姿の描写だ。

私は、郭老が中山先生の見舞いに行った前日のことをよく覚えている。その日、郭老はつづけて下関と八幡を訪れた。朝から夜まで動きつづけて、郭老はひどく疲れていた。福岡に帰るとき、老に同行した操坦道氏は、郭老がせめて車内で休めるようにという心づかいであろう、つとめて老に話しかけずにいた。ところが車が福岡に入ると、郭老は操坦道氏に相談をもちかけた。
 「明日、中山先生を見舞いに行くとき、何を持って行けばよいでしょう。お金では失礼でしょうかね。もし失礼でなければどれぐらいでよろしいでしょうか」
 操坦道先生が答えると、郭老は「朝から、ずっとそのことが気にかかっていましてね」と呟いた。
郭老の人柄に感動した操坦道氏は、後でこう言った。
 「郭先生は国民革命に参加した闘士であり、いままた世界の平和を守るために飛び回っている果敢な戦士でもある。その一方で、恩師の見舞いにもキメこまかい気づかいをしている。美しい話です」(p204)


また、こうした深い関わりのある人や、有名な人たちばかりでなく、名も知らぬ市井の人たちと触れ合う様子も、たいへん印象的である。
関西で郭をはじめ代表団一行の接待役を務めた桑原武夫は、その軽妙で核心を突くエッセイの中で、郭が運転手たちにも感謝の気持ちを懇ろにあらわしていたことを紹介して、次のように書いている。

あとで運転手が、長年車を動かしているが、偉い人からあんなにされたことは初めてだ、と感激していた。効果は百パーセントであったが、それはたんなるジェスチュアではない。大衆に対する愛情が底になければ、あんなふうに行動に発現するものではない。京都で、内藤、狩野、浜田の東洋学の三先覚の墓参をしたのも、外交的にして真情であった。亡命中のなお無名の後進を導いた彼らの学的愛情に感謝したかったのである。そして近くにあった私の父の墓を急に加えたのは、接待員としての私にたいする愛情の表現であった。(p144〜145)


「外交的にして真情」とは、言い得て妙だろう。
桑原が深く学んだルソーの言葉を想起しながら言えば、その外交的態度の的確さにこそ真情が込められていたのである。
それはまた、政治的な激動の時代を生きた一人の中国人文学者の生き様の(ルソーに劣らぬ)厳しさを示すものでもあっただろう。






だが一方、この訪問が行われた55年12月という時期が、日本による中国侵略の戦争が終わってから10年余りしかたっておらず、当時両国間には国交もなく、さらに言えばあの朝鮮戦争が終わった直後であるということなどを思い出すとき、この時の日本側の手放しの「歓迎」の質には、何か違和感を感じるのも事実である。
郭沫若は、滞日中繰り返し、日本と中国との長い交流の歴史を語り、日本がアメリカによる支配から脱して「真の自由」を獲得し、日中両国が協力して平和な未来を作り上げていくことの必要性を説く。
だが、日本側がそういう大局的な呼びかけ(これを、たんに冷戦下のパワーゲームに基づいた政治的メッセージとしか読めない人は愚かだ)に応えるには、自分たち(の国)が過去に行った事柄への直視が必要だったはずだ。
郭の発言、それは当時からの中国の対日政策の公式の立場とも重なるだろうが、日本が行った侵略行為というものを、「あえて括弧に入れ」たうえでなされていたもののはずである。つまり、その過去の事実はあるのだが、あえてそれを言葉に出さないことが、未来に向かう強い意志をあらわしていた。
ところが日本の側は、その過去の事実(自分たちの行為)を、本当になかったもののようにした上で、「旧友」との再会と和解を求めた節がある。


この時の日本社会の熱狂ぶりに私が感じる違和感の内実をなし、またこの本の各所から読み取れると思うのは、「許す側」(被害者)と「許される側」(加害者)との、そうした非対称さである。


こうした非対称が、よく示されていると思う事柄のひとつは、郭沫若の「日本語」である。
日本暮らしの長かった彼は、非常に流暢な日本語を話すことができたが、日本語を話すのは、谷崎潤一郎など旧知の人々との座談など非公式の場に限られ、講演などの公式の場では、決して日本語を話すことがなかった。
来日最初の講演となった早稲田大学では、ここでも数千人の学生がつめかける大盛況となったのだが、中国語による講演が始まるとすぐに、何人かの学生が「日本語で話してくれ」と繰り返し要請したことが書かれている。
こういう箇所を読むと、当時の日本の人たちが、左派的な考えを持つ人であっても、中国・アジアへの侵略という事実を、どの程度重く受けとめていたかは、やはり非常に疑問である。
著者によると、当時のある新聞は、このことについて、

日本語の達者な人だけに、”使わざる日本語”は、聴衆の心に深く響くものがある

と書いていたそうだが。(p177)


また、この非対称ということに関しては、日本亡命時代に郭の重要な支援者となった、作家村松梢風とのエピソードが興味深い。
村松は、郭の市川居住のために尽力した恩人だが、郭が日本の警察に連行・拘束された時、村松も警察の嫌疑を受けて夫人が拘束されたり取調べを受けるということがあった。
その直後、警察から戻ってきた村松夫妻に会ったときの印象を、後に郭は次のように書くことになる。

村松氏と夫人の態度はうって変わってよそよそしかった。他の人たちも皆、異様な目つきで私を見た。私は体じゅうが寒くなっていく気がした(p33〜34)


このときのことが、こうしてずっと二人の間で心のしこりのようになっていった。
今回(55年)の来日時、郭は東京でその村松と再会する。それを著者は、次のように書いている。

以上紹介した郭老と村松氏の回顧では、細部に違いがあり、立場も違うが、共通しているのは、当時、日本の官憲が郭老を脅かし、侮蔑したことで、きわめて不愉快な記憶を与えたということである。ところが、郭老は、新しい歴史的条件のもとで、中日友好の大局から全然このことを口にしなかった。旧友との歓談を楽しむだけである。村松氏もこれに感動した。そしてこう書いた。
「郭さんも今は昔のことは一切忘れ、前後二十年を暮した第二の故郷である日本をなつかしみ、心から喜びにひたって人々の歓迎を受けているのだ。私などにも昔の不行届をとがめず旧友として招いてくれ今夜は郭さんの個人的なお客にされてしまった。中国の学者諸氏にも紹介され、楽しい一夜を送った」(p35)


両者の言い分や立場が食い違っているという、この戦前のエピソードにおいて、本当に村松氏に非があったかどうかは分からない(恐らく、村松氏個人に過失があったわけではないだろう。)。
ただ肝心なことは、若き日の郭沫若には、そのときそのように感じられたということであり、その背景には、中国がそのとき置かれていた状況、日本と中国との関係というものがあっただろう、ということだ。
それは、個人的にだけ考えれば非合理な受けとめ方であったかも知れないが、それでも郭の側は、55年の再会時においても、(「大局」のためであっても)そのことを「昔のことは一切忘れ」るというようには出来なかったはずである。
しかしそれをあえて、口や態度には出さず、暖かく旧友に接した。
ここに、先に書いたような、加害的な側と被害的な側との意識のずれ、非対称を見出すことは、村松に対してあまりに酷だろうか?
私は、実生活において、村松梢風郭沫若に対して行ったような献身的な援助を、国籍や民族の違う友人たちに行ったことはないし、今後も行えるかどうか自信がない。
この本に出てくる日本人の多くは、みな個人的には卓越した寛容さと勇気を持った人たちである。だがそうであってさえ、その人たちの意識は、「被害を受けた側」の意識と同じものではなかったのだろう。そこに、歴史というものの重さを感じる。


だがさらに本書を読み進むと、こんなエピソードが書かれている。
村松は戦前、郭沫若の他、作家郁達夫とも親交があった。
郁達夫は45年9月、スマトラで日本の憲兵により殺される。そのことは、村松の心に深い傷を残したらしい。
東京で行われた代表団一行のお別れパーティーのとき、村松は会場に、かつて郁から贈られた書の掛け軸を持ってくる。

郭老が村松氏の前に行ったとき、村松氏は、「郁達夫は今晩の宴会に来られないので、代わりにこの掛け軸を持ってきた。彼は私たちと一緒にいるのだ」と言った。郭老はうなずいて、この古い友人の気持ちを理解していることを示した。(p241)


最初の再会の時の、郭沫若の態度は、村松の心情の奥深い部分に見えない形で働きかけたのではないだろうか?
苦難(被害)を生き延びてきた者の側が、かえって、そこでは加害的な立場にある他の者の心に働きかけ、解き放つ。
そういう普遍的な逆説の構図を、ここに垣間見る思いがする。





郭沫若については、「文革礼賛」や、日本に残した妻子の存在があるにも関わらず、帰国後に別に家庭を持ったという事実など、非難される事柄がある。
それらは、時代的な制約があるとはいえ、やはり許されるはずのない過誤だったのだろう。
だが、人間は必ず過誤を犯す存在であり、そしてだからといってその過誤を批判せずに容認するわけにはいかないのだが、ただそれでも、ある時代の一つの状況を生きた人間の生を私たちが捉えようとするとき、その過誤の大きさにだけ目を向けて、他の部分での葛藤や苦悩や愛情の真摯さに目を向けないことは、大文字の「偉大さ」だけを見て過誤を隠蔽してしまう態度に劣らず、間違ったものである。
本書から私が受けるもっとも強い印象は、郭沫若という、複雑な時代と個性を生きた一人の人間の、偽らざる生の姿である。
冒頭に引いた郭の発言を、ここでもう一度引用しよう。これはこのときの離日の直前、南原繁から今回の訪日で感じた日本の印象を訊かれた答えの一部分である。

一番私どもに感銘を与えたのは、変化といえば変化ですが、人間と人間の関係、われわれとあなた方との間の感情が昔と違ったような感じがします。それは一番深く私に感銘を与えました。
 学生時代、それから亡命の時代は、先生もご承知の通り、私の国が悲惨な運命に陥っている時代ですから、非常に肩身が狭かったのです。学校の先生からは愛され、同窓の間に友達もたくさんありますけれども、お国の方一般からは、これは無理もないですが、疎隔があったのです。もっと率直にいえば、軽蔑しているというようなところがありました。ところが今度来ると、そういうところが違ったのです。兄弟のような感じです。ことに田舎に行くと、ほんとうに真心を表して歓迎してくれて、とてもなつかしく、親しみを感じました。
 (中略)それで私どもの共通した感じは、まず第一に感情です。感情の表れが昔と確かに違う。(p223)


私は、ここで郭が語っているのは、むしろ未来に対する希望なのではないかと思う。
この訪日の時に行われた訪問や再会は、たしかに郭にも日本の人たちにも、何かを与えた。
だがその何か、郭が「感情」という語によって端的にあらわしているそれは、ほんの少し努力を怠っただけで、現実の力に押しつぶされて、再び消えてしまうようなものである。
郭がこの訪問時、アメリカの支配からの日本の脱却と、日中の国交回復による平和の実現という政治的メッセージに託して語ったのは、そうした政治的努力によって保障される、個人間の本当の「感情」の交流の形成、という願いだったのではないだろうか(そこには、郭個人のさまざまな苦悩や痛恨も込められているかも知れない)。
それは、郭自身を生涯にわたって縛り続けた政治的「不自由」からの解放の願いでもあったかもしれないが、しかしその「不自由」は、この時すでに郭が喝破していたわれわれの社会の「不自由」さと、無縁のものではないのである。