デモと暴力

『中国:「本当に自発的?」反日デモに冷ややかな声』

http://mainichi.jp/select/world/news/20101018k0000m030054000c.html

『中国:綿陽でも大規模デモ 一部暴徒化、日本料理店襲撃』

http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20101018k0000m030092000c.html


反日デモが起きると、これは「官製デモ」だと囁かれているというような伝聞調の記事が書かれる。しっかりした取材にもとづく記事ではなく、こういう風聞があるという、トピックスのような内容である。
漠然と『一部の市民は嫌気を感じている』と書くだけでも曖昧な感じのする文章だが、それに『ようだ』という語尾が付くので、非常に曖昧模糊とした報道だ。
そして、その説明で収まりのつかない事態が生じると、「当局も想定してなかった」だとか、生活上の不満の鬱憤晴らしの要素が加わったのだろうとかいう論調になる。
どうしても「反日」が真面目な声として叫ばれてるのだという部分には、目を向けたくないらしい。


中国という国では、デモは厳しく制限されているのだろう。
そのなかで、一部の地域のデモにだけ許可が出されたということは、「反日」をスローガンにしてデモや集会をやりたいという人が、実際には相当多数にのぼっていて、デモを実行して参加できた人はそのごく一部に過ぎないと考えるのが普通だと思うが、そういう判断は日本のメディアには見られない。
自分の国の政府にどんな不満を持っていても、実際に侵略された事実のある隣国から圧迫が加えられていると思えば、そのことへの恐れや怒りが生じるのは人情だろう。四川省でも西安でも、侵略戦争は過去の出来事にはなっていない、いや日本の政治家たちがそのことを忘れないようにさせてきた筈である。
こうしたデモに「官製」の要素があったとすれば、人々の感情が、そうした日本への恐怖・警戒や不信に由来する「反日」を口火にして爆発することへのガス抜きを意図してのものだったろう。
反日感情が悪化し、不測の事態が起きて両国関係が悪化したり、日本に負い目が出来たりすれば中国政府にとっては都合が悪いのだから、「反日」という火種がもともと無いものなら、あえてそれを作り出して扇動する理由などない筈なのだ。
反日」はたしかな内実を持った人々の声で、その内実は、声を上げざるをえない状況に追い込んでおいて、その声にまともに取り合おうとしない日本の社会に向けられているのである。


反日」が政府による作り物や、たんなる不満の噴出の口実とは言えないものだということになると、今度は中国の「愛国教育」が原因だとか、やはり他人に責任を転嫁するような言い分が出てくる。
たしかにどの国でも、そういう政策が行われることはあるだろうが、靖国問題憲法改正の動き、政治家の暴言、それに在日外国人に対する差別の公然化、あげくは核武装を公言する元自衛隊幹部が主導する反中デモなど、あからさまな日本の右傾化の様子を見れば、教えられた「反日」は、こればかりは真実であったかと、思う人が大半を占めるのは当たり前の話だ。
要するに、反日・愛国教育の最大のサポーターは、右傾化する日本国なのである。


だが、そこに注目させるような報道の仕方をするとなると、自分たちのしがみついている「体制」を批判することになってしまう。
だから意識的にか無意識にか、「反日」という声との主体的な向き合いは、日本のメディアや言論においては避けられ続けることになる。
そうした状況こそ、他国の人々の日本への危惧を、いっそう強めるものになるはずだが。





ところで今回、いくつかの都市でデモが「暴徒化」した、という報道がされている。
破壊や暴力は、もちろん愚かなことだろう。
だがまず暴力は、日本の社会でも差別という形態において日常的に行われている。
そして、今回暴力によって生じた被害は法的に処置されるべきだとしても、この暴力の背景にある怒りなり不満なり不信なりを、どのように考えて向き合うかということは、まったく別個の問題として残るのである。
それらはきっと、暴力や破壊という形以外で表明されるなら、もっと良かっただろう。
だが、不幸にして暴力という形で表明されてしまう場合があり、そのとき、その暴力の結果(被害)をどう捉えるか(罰するか否かとか、許すか否かとか)ということとは別に、その背景にある人々の心情、それを生み出したものへの対処という課題は、われわれに差し向けられて残るのだ。
それが、「反日」にどう向き合うか、それを叫ばせているわれわれ自身の現実にどう向き合うか、ということである。


かりに、何らかの不平等や不正義が原因で、私の肉親や友人に暴力が加えられたなら、その事情(背景)はどうあれ、私はその暴力を憎むだろう。
それは当たり前の人情だが、まずそれが「当たり前の」ことだと見なされるのは、特権的な側の人間だけの話である。「テロリスト」に暴力を加えられた先進国の市民は、どんな怒りを無制限に言明したり、ときには実行してさえ「理解できる」とか言われるのだが、結婚式の最中にアメリカのミサイルで「誤爆」されて親族を皆殺しにされた人たちの怒りや、畑仕事をしていて突然トラックの荷台に載せられて日本の炭鉱に連れて行かれて親や夫を失った人たちの憎悪や怨念は、「理解できる」対象とはされず、たんに「憎悪の連鎖」というようなレッテルを貼られる。
われわれの怒りだけが、いわば神聖化され、そのことによってむしろ共同化されるのだが、他者の怒りや憎悪は、理解不能という烙印を押されることで、われわれの日常的な生の感覚からは切り離されてしまう。
肉親や友人を奪われた「私たち」の怒りを「当たり前の人情」と考えることには、こうした政治的作為が込められていることは、忘れないほうがよい。


そのうえで、それでもなお私たちが抱くだろう、そうした暴力(対抗的な暴力)への憎悪というものは、その憎悪や怒りが社会的に横領されず、私たち自身のものとして捉えられるなら、絶対にとは言いきれないが、その暴力を(偶然的にもせよ)生み出した事情(背景、構造)への怒りにつながることがありうる、少なくとも、その方が理論的には当然なことだと思える。
ただその当然さを享受することを、いつも人間は許されているとは限らないだろうが。
その場合、この暴力そのものへの怒りと、それをある程度は偶然として生み出した現実の構造(「反日」のテーマにおいては、この構造への責任を日本人全体がなにがしか負っているのだが)に対する怒りとは、別個のものであるからこそ、接続することがありうるのだ。
そして、自分や自分に近い者を傷つけらたことの怒りが、もしそこにまで達することがあるなら、そのときにこそ、他者(私たちの加害ゆえに不可視にされている人々)との出会いや連帯の可能性は高まっていると言うべきだろう。