『プラトンの哲学』

以前、プラトンの大作『国家』(『共和国』)を読んだとき、はじめの方に出てくるトラシュマコスという強烈な人物に衝撃を受け、そのことを何度か書いた。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080321/p2


このときがプラトンの本を読んだ最初だったのだが、それ以後他の著作をまだ読めていないのは恥ずかしいことだ。
いま、この岩波文庫版『国家』の訳者でもある藤沢令夫氏の『プラトンの哲学』(岩波新書)という本を読んでいるのだが、そのなかにプラトンのそれより前の著作とされている『ゴルギアス』に登場するカリクレスという人のことが書いてある。
この人はちょうど、トラシュマコスに似た主張を、「主人公」とも言うべきソクラテスにぶつけてくる人物らしい。
藤沢氏による、カリクレスの言い分の要約を、少し引用させてもらおう。

『全部を引用できないのは残念だが、カリクレスはなおも同じ思想を熱っぽい雄弁で畳みかけるようにくり返し論じる。法律・習慣(ノモス)の上の「正義」ならぬ「自然(ピュシス)の正義」とは、「強者が弱者を支配し、弱者の所有物を力ずくで取り上げること」であり、権勢ある地位を獲得して「自分のさまざまの欲望を最大限にゆるし、勇気と知恵によってその求めるものを何でも充足させるだけの力をもつこと」である。しかるに世の大衆にはその力がないので、「口を開けば放埓は醜いことだと言い立てて、「節制」と「正義」をほめたたえるのだ」と。(p72)


これはたしかに、基本的にはトラシュマコスの言い分と同趣旨のものだろう。
この「自然の正義」を唱えるカリクレスの激烈な主張に対して、ソクラテスは、彼が『ほかの人たちが心に思ってはいても口に出して言いたがらないことを、いまあからさまに語ってくれている』と評しながら、それとの「対決」の姿勢を示していく、ということらしい。


ところで藤沢氏が、このソクラテスとカリクレスの論争に関して、次のように書いているのを読んで、少なからず驚いた。

例えば、「正義」や「節制」などの「徳」についてのソクラテスとカリクレスの論争は、いま言ったように、最後まで平行線をたどって噛み合うところがなかったが、しかし本来、プラトンソクラテスから受けとめた思想は、ある意味でカリクレスの反道徳的な主張を取りこんで、共通の土俵に立たせる可能性を内包しているはずである。つまり、カリクレスの主張を通俗道徳への批判と見るならば、同じモチーフは当然、プラトンソクラテスから受けとめたものにも共有されているはずであって、その点が中期対話篇になってからの哲学思想では、完全に明確化されることになる。(p76)


「中期対話篇」とは、『国家』をその代表とするものだ。
つまりは、『国家』などにおいて明確化されているプラトンの思想というのは、カリクレスの主張と、「通俗道徳への批判」という視点を共有し(とり込み)、その上で「世俗の徳」と異なる「真の徳」の追及へと突き進むものだった、というのである。
いわばカリクレスの主張は、プラトンの思想のなかに「毒」としてしっかり取りこまれ、それを貴重な糧として、さらにそれを乗り越えた向こうに独自の「真の徳」というものが見出されていった。


このように、プラトンの思想のなかにカリクレス・トラシュマコス的なものが、ある形で内包されているというのは、言われてみればなるほどと思うが、考えたことはなかった。それで大変感心していたのだが、さっき以前に自分が書いたものを読み返してみたら、こんな風に書いていた。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080407/p1

実際、この本のあの箇所では、書き手のプラトンは、ソクラテスによりも、むしろトラシュマコスの方にこそ自分を住まわせながら筆を走らせているように思えるほどだ。

そして、上記の引用部分を読んでも、プラトン(ソクラテス)が、「最大のソフィスト」とも称されたトラシュマコス的な立場(言論)に対して、必ずしも対立的な位置にあったわけではないことが知られるように思うのである。


なんだ、あの時はだいたい気づいてたんじゃないか。
それをすっかり忘れてしまってたというのは、やっぱりほんとには分かってなかったということだろうか・・。

プラトンの哲学 (岩波新書)

プラトンの哲学 (岩波新書)