雨のデモ

先日お知らせした、京都市の空き缶回収禁止条例に反対するデモに参加してきた。
報道した記事はこちら。
http://www.janjanblog.com/archives/18698


まあ、書いてあるとおり、一時はかなり強い雨になったこともあり、ぼくが行ったときは15人ぐらいしか人が集まっておらず、どうなるかと思ったが、例によって釜ヶ崎の人たちが応援に大挙して来てくれたりして、そこそこの人数でデモが出来た。
東京の宮下公園の関連の方や、同じように空き缶やごみの回収を禁止する条例が今月1日に可決された墨田区からも運動している人がかけつけて、スピーチをされていた。


ぼくはたまたまだったのだが、行けてよかった。
これは、行くべきだった。行ってみて、はじめてそう気づくことが出来た。
しかし、本当に大事なことは、デモとか特別の場合ではなくて、自分の日常にきちんと向き合って、こういった誰かにとって切実な社会の問題につなげていけるか、ということだと思う。そうしなければ、本当には物事は変わっていかないだろう。
いまの社会では、「生活が大変だ」(だから社会問題に関心を持つ余裕がない)ということ以上に、一人一人のなかに自嘲的な気分が埋め込まれていて、それと戦っていくことが一番大変なんじゃないかと思う。
本当に「生活が大変」な人は、かえって他人の切実な問題にも深く関わっていたりするものなのだ。
そうなることを阻んでいるのは、「生活の大変さ」ではなくて、「自嘲的な気分」なのではないか。それは、長い年月をかけて、さまざまな形で、ぼくたちのなかに埋め込まれるようなものだ。
そういう気分が、自分が生きていることを、まともに捉えること、そこで怒ったり疑問を持ったりということをしないようにさせていて、だから日常の仕事や生活の場が、「やりすごされる」だけのものとなり、他人の問題にも関心をもたない、関心を持つことを自ら遮断する、そういう思考回路になっていくのではないか。
そうすると、この気分との戦いが、つまりは(自分と他人とが)生きるための戦いの、相当大きな部分を占めることになるだろう。
デモをしながら、そんな風に考えた。