排除はすでにされている

http://www.news24.jp/articles/2010/02/26/04154284.html

高校授業料の無償化の対象に朝鮮学校を含めることについて、拉致問題を担当する中井国家公安委員長は26日朝、あらためて反対の意思を示した。一方、鳩山首相は「高校の授業の内容というものが一つ検討材料になることは間違いないと思います。別に、拉致ということにかかわりがある話ではありません」「北朝鮮とは国交がないので教科内容が見えない」と述べ、朝鮮学校を対象外とする考えに一定の理解を示したが、北朝鮮による拉致問題とは関係ないとした。


対象から外す理由は拉致問題とは無関係、と言い張りたいらしい。
それにしても「国交がないので教科内容が見えない」というのは、まるで意味が分からん。
授業をやってるのは日本国内ですよ。
教えてる内容が知りたければ見学に行けばいいんだよ。
本の学校だって、四六時中部外者が授業内容を監視してチェックしてるわけじゃないだろう。何度か見学して教科書を見たり、関係者に話を聞けば、教科内容の分からないはずがない。
「見えないのではない。見ようとしないだけだ」という有名な言葉があるけど、これほどピッタリあてはまる例を他に知らないよ。


拉致問題を理由にあげるにしても、国交がないから云々という世迷言を言うにしても、それが事の本質ではないであろう。
旧植民地に出自を持つ人たちにとって、切実に求められた民族教育の場、のみならず日本の差別的な社会に無理やり組み込まれて生きること、そのなかで深く傷つくことから子どもたちを防御する空間でもあっただろう朝鮮学校は、もともと日本政府から何らの補償を受けることもなく、日本の公教育の場から排除されてきた。
多くの親たちは、公的な補償や援助(日本の学校の保護者なら当然受けられるもの)をなにひとつ得られず、したがって授業料ばかりか教材費や、グラウンドや校舎などの整備のためのカンパなど、高額の教育費をやむなく投じて子どもたちを通学させてきたのだ。
何度も繰り返すが、この状況を作ったのは、日本の国と、われわれのこの社会である。
つまり、排除も差別も、もともと行われ続けて現在に至ってるわけである。


そのなかで、「無償化の対象から除外する」という発言を政治家がするということは、この排除と差別を、今後も継続するというメッセージを、当事者に対して、同時に国民に向かって、また世界に対しても発してるのと同じことだ。
しかも、それはいわば、「社会全体による教育の負担」というリベラル的な(この表現をあまり使いたくないが)理念によって、これまでこの国が行い、朝鮮人たちが苦しめられ続けてきた差別的な制度というものに、正当性のお墨付きを与えたようなものである。
リベラルなないしは社民主義的な価値観のなかにおいても、朝鮮人差別は正当であって、われわれの社会は今後もそれを続けていくのだと、当事者を含む大衆全員に宣言しているのも同じなのである。
こうして、朝鮮学校に子どもを通わせるような人たちは、これまで受けてきた排除に加え、さらに「リベラル的」と標榜される価値観のなかでも、さらに排除されることになる。排除や差別を蒙るということの妥当性が、リベラルな価値観の場においても(念を押されるように)確定されるのだ。
この人たちにとっては、「高校授業料の無償化」という、リベラルな政策の提示が、屈辱を深めるための仕掛けでしかなかったことになる。
この意味で、今回の一連の発言と経緯は、非常に罪深いもの、いやとんでもないものだと思う。


「適用対象から除外するな」という保護者たちの声の真意は、無論、たんに「無償にしてくれ」という要求ではないだろう。
それはなにより、「差別や排除をするな」ということであり、そして、もういい加減で差別や排除をやめろ、こんな愚かな差別的な社会を変革しろ、という声なのだ。


大体、拉致を理由にするにせよ、わけの分からん他の理由を持ってくるにせよ、「相手の行動や政治的態度が悪いから適用対象から外す」などという言い草は、これまで差別や排除をしてこなかった者の言うセリフだ。
朝鮮学校朝鮮人に対して、ずっと最悪の政治的態度しかとってこなかった国、差別と排除を延々と行使して現在に至っている国の政治家が、言うべき言葉ではない。
こうした差別と排除の撤廃から始めるのでなければ、どんな立派な民主主義的社会が現実に可能だというのか。