沖縄に押し付けているもの

橋下知事の発言以来、関西では沖縄の基地についての関心がやや高まっていて、さっきローカルの情報番組を見ていたら、普天間基地の現状がかなり詳しくリポートされていた。


住宅地に隣接し、「世界一危険な飛行場」とも呼ばれ、いつ来るか分からない、絶え間のない騒音に周辺の住民が悩まされている、普天間の基地。
インタビューされていた住民の女性は、「毎日のひどい騒音を、本当に嫌だと思いながらも、それに慣れてしまっている自分がまた嫌で・・」という風に語っていた。
自分の置かれた環境や境遇が、ほんとうに不当なひどいものだと思いながらも、
そうした日常が、小さな力によっては到底変えることが望めないようなものだと思われるとき、人はその現実に「慣れる」ことによって日常を送るしかないが、そのことによる自己嫌悪ほど、人を深く傷つけるものはないだろう。
それはわれわれの多くが、いくらかは日常的に経験していることでもある。


橋下知事の発言は、こうした現状に関心を持つことで、自分たちがどういうものを沖縄におしつけてきたかの一端に気づく機会になるだろうという面では、たしかに意味があったのかも知れない。
だが、この番組の取り上げ方を見ていても、やはり大事な視点が抜け落ちていることを感じざるをえない。
沖縄に米軍基地が集中しているということは、たんに「危険で、騒音のひどい空港」が多くあるとか、(米兵による)犯罪の危険のなかに人々が置かれているとか、あるいは(新基地建設に伴う)環境・地域社会の破壊に人々をさらしている、ということだけを意味するのではないだろう。
それは、他国の人々を日々殺傷する、軍事基地を保持する直接的な役割を、この地の人たちに、他ならぬ沖縄の人々に担わせている、ということでもある。


この点から見ると、たとえば普天間から関空に基地を移設するということは、「負担を肩代わりしてあげる」という単純なこととは、違う様相を呈する。
沖縄は、アメリカと事実上の同盟関係を結んでいる日本に帰属しているわけだから、たとえ関空に基地が移設されたとしても、間接的には、「他国の人々の殺傷への(強制的な)加担」という重荷から解放されるわけではない。
むしろ、「間接的」となることによって、「他人にその役割を押し付けている」という後ろめたさのようなものが、その上に生じないとも限らない。


無論、そうした感じ方、捉え方は、誰でもが持つわけではない。
現に沖縄に住んでいないわれわれは、「他人にその役割を押し付けている」という後ろめたさに悩まされることなど滅多にないわけだし、そもそも間接的であるとはいえ明白な、米軍による大量殺傷への加担のリアリティを、生活のなかで持つこともない。


だが、この土地は、他ならぬ沖縄である。
戦争による惨禍と、被支配による苦しみの歴史を持つこの土地の人たち、とりわけ戦争を経験している人たちのなかには、ほんとうは人間なら持っていて当たり前の、こうした(人)命に対する感じ方、捉え方のようなものが、生々しく残されている場合があるだろう。
その、最ももろい生身の部分に、われわれは、軍事基地による殺戮への加担という、とてつもない重荷を押し付けてきたし、今も押し付けているのである。
これがおそらく、「沖縄に基地がある」ということの、最も重い意味である。


それを考えれば、基地の存在による負担を軽減するために、関空への移設によって肩代わりするという発想が、そこに日米の軍事的な関係や、日本国のあり方に対する根本的な問い直しを含まないなら、人々の心のもろい生身の部分を、なおさらないがしろにする、皮相な発言であるか、分かろうというものではないか。