ぼくが前回寄稿させていただいた、Web評論誌『コーラ』の新号の案内が届きました。
以下、転載します。
■■■Web評論誌『コーラ』9号のご案内■■■
本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、
〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の
声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉
の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
★Web等での本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。
●シリーズ〈倫理の現在形〉●
残念ながら、今号は寄稿者の都合により休載といたします。---------------------------------------------------------
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第13章 ラカン三体とパース十体(序)
中原紀生
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-13.html宇波彰氏は、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』の第1
部「理論的な領域」に収められた七つの論考群で、パースとラカンとベンヤ
ミンの思考を関連づけています。精確に述べると、パースの三つのカテゴリ
ー論のうちの「第一次性」、すなわち「あらゆる綜合と差異化よりも以前に
ある」もの、いいかえれば言語化できない何かと、ベンヤミンの「純粋言
語」、すなわちいかなる表現も表象も担わない言語、したがってわれわれに
届かない言語と、ラカンの三領域論のなかの「ル・レエル」、すなわちシン
ボル化(言語・記号によって表象されること)を拒否するもの、もしくは
「特殊な意味での「物」の領域」という三つの概念を、いわば「星座的」
(ベンヤミン)ないし「機械状」(ガタリ)に連結して論じているのです。
以下、宇波氏の議論を、主として、(ベンヤミン、ラカンとの関係を軸に
パースの思想を主題的に論じた)「弱者の言説」から抜きだし、適宜、(
「ラカンのシニフィアンに光あれ!」「アブダクションの閃光」「廣松渉の
言語哲学」といった)他の論考での議論を補ったうえで、編集し要約してみ
ます。(以下Webに続く)---------------------------------------------------------
●連載:新・映画館の日々」第9回●
人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説鈴木 薫
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-9.htmlJ・R・R・トールキンはいまだ発見されていない未来の作家である。
『指輪物語』があれだけ評判を取ったのは、何かの間違いだろう。いや、あ
れに(あるいは映画化されたものに)惹きつけられ、ファンになったという
のなら、それはそれでいい。『指輪物語』は確かに「快楽の装置」であっ
て、『シルマリリオン』(邦訳『シルマリルの物語』)を知らなくとも十分
に楽しめるものであるから。驚くべきは、少なからぬプロの書き手が、賞賛
すべき『指輪物語』の作者トールキンの作であるという理由で、やむをえず
(としか思えない)これに言及する際、それが彼らにとっての「快楽の装
置」として機能しないため、これは『指輪』のための舞台を準備したものに
すぎないと言いくるめて、おのれの不能ぶりを糊塗し、また、自らの理解力
のな さを棚に上げて、『シルマリリオン』を“難解”と呼んではばからな
いことだ。『指輪物語』は実のところ『シルマリリオン』から派生したものであり、
いかに長大であれ、また、切り離してそれだけで読めるにせよ、その副産物
でしかない。職業的小説家ではなかったトールキンの生涯をかけた“主著”
は、どう見ても『シルマリリオン』である。『シルマリリオン』に作者が入
念にほどこした仕掛けが見分けられなければ、『シルマリリオン』と『指輪
物語』がどう繋がっているのかもわかりようがないはずだ。
(以下Webに続く)
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●コラム「コーヒーブレイク」その3●
歌謡「おさななじみ」にみる〈公的記憶の改竄又は無化〉
橋本康介
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-3.html
永六輔は、63年当時に高校生か大学生(つまりは16〜22)である諸君の少
年期を拝借し、彼らが自身の近未来から、個人史を振り返える。
そんな設定で、時代・世代を問わず歌える歌を作詞したに違いない。そう
だとは思う。
しかし、当時30歳の永が1933年生まれ、歌い手の初代デューク・エイセス
が30年代後半生まれの、若いパパ・ママ達であってみれば、聞き手がそこで
「作り手の幼少期、初恋、結婚なのだ」として聞いたとしても、それは聞き
手の責任ではない。事実、当時誰もがそう聴いたのだ。(以下Webに続く)