『カネと暴力の系譜学』から

暴力にもとづく国家と資本による収奪という観点から、社会の構造と現状を捉えようとする意欲的な論考。
以下では、とくに印象深かったところだけに触れる。

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)


本書でとくに目を引くのは、国家と法との関係についての論述である。
ドゥルーズ=ガタリの国家論を継承しているといえる著者は、いわゆる契約論的な考え(国家の基礎を「人びとの支持や同意」に見出す)とはまったく異なり、国家の基礎(根拠)を圧倒的な暴力の不均衡に見出している。つまり、国家は圧倒的な力を持つがゆえにのみ、他の暴力を禁じ(取り締まり)、他を支配する。
しかし国家の暴力の特殊性は、たんにその力が圧倒的であるということだけでなく、自らが行使する暴力と、それによって取り締まる他者の暴力とを、実際の取り締まり行為(暴力の行使)を通じて、「合法」と「違法」とに区分してしまうということにこそある、とされる。国家の暴力は、『たんなる力の格差を、権利をめぐる非対称性に変える』(p60)ものなのである。
だから、国家の法において、またとりわけ暴力について「合法性」の根底にあるものは、じつは力の格差(不均衡)以外ではありえない。著者が、合法性と正当性とを峻別するのは、このためである。

合法性と(道徳的)な正当性はけっして同じものではない。暴力について考えるうえで、両者を区別することは決定的に重要となる。(p23)

国家の暴力が合法化されているということは、それが正当なものかどうかということとはなんの関係もない。(p61)


ところで、法をつうじて、つまり「合法」と「違法」との区分ということをつうじて、国家はこのように自らの支配力を強めもするが、同時に法の存在は、ときに国家の足かせともなるという、両義性をもつ。
そこで、国家は「本質的に」、「法の空白」を作り出して自らの統治権力を自由に行使しようとすることになる。法秩序が一時停止され、主権者(統治権力、国家)の暴力が法の規定を脱して行使される、いわゆる「例外状態」がその見やすいがあらわれと言えるが、著者はそれを、国家のこうした本性の露呈とみるのである。

認識すべきなのは、こうした例外状態は、合法的な暴力の独占という国家の構造そのものから出現してくるということだ。(p104)


官僚の行政指導や警察の取締りにおいて日常的に生じている法からの逸脱は、こうした国家の「法による統治」というものの本質に根ざした「非―例外」的な事態であるとされるわけだ。


国家が法をつうじて自らの暴力と支配を強化し正当化するものでありながら、同時に法を束縛と感じてそこから脱する状況を作り出そうと欲するものでもあるということ。
国家に対して法がもつ、この両義性の認識が、ひとまず目を引く。
ここから、国家が法に対してもつ関係が、つねに恣意的なものであるという事実が注目されることになる。国家は、「合法/違法」という区別を都合よく行ってそれを利用し、みずからの利益を最大限に確保しようとする。


イラク戦争において話題となった米軍などにおけるいわゆる「戦争の民営化」に関して述べられた以下の箇所は、本書のなかでもとりわけ現在の状況についての幅広い示唆に富むものに思えた。

要するに「戦争の民営化」とは、国家がみずからの公的な立場や責任をこえて暴力を実践するためのひとつの方策なのだ。ただしこの場合、非公式エージェントを担うのは、もはや非合法的な裏の組織(マフィアやゲリラ)ではない。合法的な民間企業である。
 関係の変化というのはこのことである。つまりそこでは、国家が非公式エージェントともつ関係が市場化(企業化)をつうじて「適正化」されているのだ。
 では、この「適正化」によってどのような事態がもたらされるのだろうか。それは、これまで裏の非合法組織のもとにながれていた利権が、国家とつながりの深い企業のもとに公然とながれるようになる、という事態である。
これは国家にとって大きな利点となるだろう。じじつ「戦争の民営化」は、政治家や官僚といった国家の権力者たちが利権にありつける機会をふやした。これは構造的なレベルからいえば、それまで非合法的な領域にむかっていた金の流れを、国家が、みずからの法的支配のもとにある資本蓄積の運動へと統合したということを意味している。(p119〜120)


これまで癒着を通じて利用してきた(ときに非合法的でもある)「利権」的な集団を切捨てて、「適正化」の名のもとに権力の中枢への「合法的」な利益の回収(統合)の新たな回路を切り開こうとする動向は、国家レベルに限らず、現在多くの地方自治体の行政にも同様に見られる事態だろう。
まあ、大阪のようなところに住んでると特にそう思うわけだ。
だが国際政治の舞台でも、同様のことが進行しているはずだ。
たとえば、先ごろ報じられたこの件
これまで国際的にはブラックボックスのなかにあるとされた「違法資金」が、中国の銀行と、そこに資本参加しているアメリカ系の金融資本の「合法的」な監視下に置かれることになりそうである。
といっても、その金額は日本円で20数億円と、日本人大リーガーの契約金にも及ばない額だし、上記の記事のなかにもあるように動きの内容についても中国側が詳細を把握することは難しいではないか、と思われるかもしれない。
だが、いま表面にあがっている金額や、その動きの経路だけが本当の問題ではないだろう。そもそも「非合法」的なカネの流れの把握ということだけなら、「国際社会」は実はこれまでも行えていたはずだ。アメリカを含む周辺国は、この「非合法」なカネの流れを十分利用してきたはずなのである。
重要なのは、この地域をめぐって今後動くことになるだろう巨大な量のカネの動きを管理する場から、中国とその背後にいるアメリカ系の金融資本以外の勢力、六カ国協議の参加国でいえば日本、韓国、ロシアなどが「合法的」に排除される仕組みが作られつつある、ということである(もちろん、朝鮮の一般の人たちは最初から排除されている。)。
これが、カネと力の論理、ということだ。


上記の引用箇所に続いて、萱野稔人は、さらにこう書いている。

「戦争の民営化」が「テロとの戦い」というスローガンのもとでなされた一連の措置と並行してなされていることは、したがってけっして偶然ではない。 
テロとの戦い」には、これまで国家と協力関係にあった裏の組織を――テロリストとして規定することで――切り捨てるということが含まれている。その主要な措置のひとつが、闇の資金を洗浄するマネーロンダリングにたいする取締り強化だ。つまりここにも、裏の組織に流れていたカネの動きを国家にとって管理可能なものにしようというねらいがはたらいているのである。
「戦争の民営化」も「テロとの戦い」も、国家がこれまで非公式な実力部隊と結んでいた関係をどのように再編成するのかということにかかわっている。その再編成は、カネの流れを非合法組織のもとから国家の公的秩序のもとへと移しかえることと切りはなせない。それによって国家の法的秩序のもとにある資本蓄積の契機はより拡大されるのである。(p120)


「公的な秩序」のもとへの、資本を通じたカネの流れの集中の公然化ということが、現在起きている事態の、少なくとも一面を示すものだと言えそうだ。
それは「合法的」ではあるが、あい変らず、(道徳的に)「正当」とはいえない。
いつも、より大きな暴力こそが、公的(法的)秩序を定めていくのである。


(続く可能性あり)