もう一度、村上さんの件について

どうもまだ、自分の立場について、ちゃんと書けてない気がするなあ。


何度も書いてるように、村上春樹さんがエルサレム賞をすんなり受賞したという知らせを聞いたとしても、ぼくとしては、「やれやれ、やっぱりそうか。村上が何か具体的な行動をとるなんて期待する方がどうかしてるんだよ」という風に思う気持ちが最も強いだろう。
だが、そういう風に醒めた気持ちで村上さんの行動をとらえるということ、自分の判断のなかに閉じこもったまま、相手がその判断(予測どおり)の行動をとることを確認してやり過ごしてしまうような態度こそが、悪い意味で「イスラエル的」というか、私(ぼくたち)とイスラエルパレスチナ三者を結んでいる関係の根本にある態度だという気がしてるのだ。


村上さんという一人の作家の行動に対して、「やれやれ、やっぱりな」と黙認してすませるのではなく、人間についてのその人なりの価値観にもとづいて、「村上、この野郎!」という風に怒れるということの、その反権力性というか、愛情のようなものを認める、というより自分自身のなかのそういう部分を許容してやるということは、あっていいのではないか。
それは、安定を失ってしまうことにつながるし、居心地のいい話ではないが、その人が(ぼく自身が)生きていく上で、きっと大事なことだろうと思う。


ただ、「村上、この野郎!」的な発言に拒否反応を示す人というのは、そういうことでなく、この非難の言葉が、どこかにある正義の客観的な基準から、いわば教条的に発されているかのように思えて、身構えるのだろう。
まあ、たしかにそれはきっと怖い。ぼくは具体的な経験がないが、きっとたいへん怖いものだろう。
だが、「村上、この野郎!」的な発言をする人の全てが、そんな大上段から物を言っているということではない。その多くは、あくまで主観的な判断にもとづく発言、言葉に他ならないはずだ。言わば客観的な基準を参照してないからこそ、この言葉は力を持っているはずである。
その言葉は、対象に対する、「愛」と呼ぶことが大げさなら、冷淡さの拒絶に貫かれたものだろう。


無論、そうであっても、それは暴力でありうる。
だが、その暴力の危険を先制的に防御したいというなら、まず自分の側が冷淡さのガードを解除する必要があるのではないか。
自分自身の他人(というよりも世界)に対するある種の冷淡さが、自分の圏域を他者の脅威から守るための方便になっていないかは、常に問う必要がある。
何よりその冷淡さは、壁に守られている私自身を深く損ねるものだからだ。


村上さんの動向に、あらためて深く注目したいものである。