殴った者と殴られた者

特集:日中歴史共同研究報告書(要旨)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100201ddm010010012000c.html


両国の研究者といっても、色々な意見の人がいるはずだから(中国でも近年、そうした自由な研究の雰囲気が出てきたと高名な研究者から聞いたこともあるし)、この内容の隔たりは、あくまで両国の「公式的な見解や歴史観の相違」ということだろう。
それが日本の報道を見ると、中国側の「公式見解」と称するものの政治性(政治的な縛り)ばかりが指摘されている。笑止である。


なるほど、一見すると中国側の見解が政府や党の「公式」の見解に沿って、日本の侵略の意図とか被害の大きさを強調する頑なな主張を貫いているように思えるのに比べ、日本側の文面は、「さまざまな意見がある」ということを述べたり、事実を特定の視点に縛られることなく、できるだけ「客観的」に把握しようとする「中立的」な立場から書かれているように見える。
例を挙げると、南京事件の被害者数についての、次のような記述である。

日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、47年の南京戦犯軍事法廷で30万人以上とされ、中国の見解はこれに依拠する。一方、極東国際軍事裁判の判決では20万人以上(松井石根司令官に対する判決文では10万人以上)とされた。日本側の研究は20万人を上限とし、4万人、2万人などがある。諸説ある背景には、「虐殺」の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計などの資料に対する検証の相違が存在している。


犠牲者の数についての日本国内の「諸説」が、ここに書かれている数字によって概括されるものかどうか、私には分からない。
ともかく、ここでは「事実は定かでないが、さまざまな説がある」ということが述べられている。
これは、「虐殺」と呼べるものの発生を否定したり、相対的に少ない犠牲者数を頑なに主張するよりは(といっても、20万が上限だということは譲りたくないようだが)、ずっと公正な態度のように思える。
いや、公正ということでは、中国側の発表よりも、歴史研究としてずっと公正な姿勢のように見られるかもしれない。


だが、このように中国側の主張する数字まで含めて「諸説」を「客観的」に記述してみせて終わりとする態度には、この侵略なり虐殺なりを行った当の者としての「引き受け」の意志は見出せない。被害を受けた相手はまさしく、この「引き受け」を求めて、そこから関係の構築や修復(和解)を図ろうとしているはずだのに、である。
まして、この要旨の全文を読んでみれば、言われていることは結局、日本に国家全体として中国を侵略する明確な意図があったわけではないだとか、虐殺の拡大の原因は中国側にもあっただとか、「客観的」と称して、実は自国側(暴力を振るった側)の現在の立場や権益を守ろうとする言明で覆い尽くされているのである。
これが、悪しき政治的(公式的)な態度でなくて何なのだ。


殴った側の、そういう狡猾な態度を、殴られた側は、暴力を振るったことを何ら反省しておらず、いつまた同じことを繰り返すかもしれない、その体質がまるで変わっていないことの証拠として、感じとらざるをえないだろう。
そのことは、殴った側の者に、「自分の身体に聞いてみる」というような、いわば身体的な感覚、殴られた相手と同じ高さに立つ人間としての感覚が維持されているなら、いくばくかは理解できるはずのものだ。
だが、そうした感覚を、否認あるいは排除したところに成立しているのが、日本側の(ここに示された)公式的な歴史研究の態度というものであり、そのまま日本の国家権力の体質と呼んで差し支えないものである。





このこと、殴った者と殴られた者との、未だ埋められない齟齬の原因である日本側の姿勢が、とりわけ如実に示されていると思うのは、冒頭に近い次のような箇所である。

1922年に山東懸案細目協定や鉄道細目協定を結んだ。中国では国権回収運動が高まりつつあった。日本は中国に対し「対支文化事業」という文化的アプローチを打ち出していた。中国側の意向をかなり反映し、名称も「東方文化事業」と改められた。にもかかわらず東方文化事業は文化的侵略だとの批判が中国側から相次ぎ、済南事件以後、中国の委員が脱退するに至った。


「にもかかわらず」というところを読んで、ふざけるなと思ったが、この「文化的」な態度なるものを、昔も今も「殴られた側」は侵略的と見なしていることが、これを書いた人間にはまるで分かっていないのだ。
もちろん、そうさせているのは、殴った側の態度である。
いや、というよりも、「殴られた側」には歴史がそう見えるということ、こちらが善意のつもりで行ったかもしれない(個別にはそういう人も居ただろう)「文化的」というアプローチの仕方が、侵略を受けた後になってみれば、どう言い繕っても始めからまったく侵略への前段階であったと考えざるを得ないほどに傷つけられた人間のリアリティーと、そういう現実の被害者たちのまなざしとを、自身の身体的な感覚として感じとることの否認の上に、かつては「文化的」と呼ばれ、今では「客観的」だとか「中立的」だとか呼ばれる、この脱歴史的な態度は成り立っていて、それをこそ中国の人々は、侵略的であると見なすはずだ、ということである。
それはつまり、「文化的」なアプローチ(介入)が、そのまま半ば必然的に全面的な侵略という国家の行動へと横滑りし飲み込まれていく、その同じ構造を、現在の日本の国家と歴史研究の態度の中に見抜いている、ということなのだ。


言うまでもないが、私は、「文化的」というようなアプローチそのものが悪いと言いたいわけではない。
「文化的」であることを、たんに「非政治的」とみなす態度そのものに、そしてそのうえで、簡単に当時の国家とか日本人全体の善意や無垢や「中立性」のようなものを見出してしまう精神の、政治権力に対する無防備さ、「寄り添い」のようなものが、被害を受けた人たちにとっては脅威に映らないはずがない、ということを言いたいのだ。


以上のように見てくれば、日本という国は、未だに「殴られた者(自分が殴った者)」と同じ高さ(身体性)において歴史を引き受け、関係を築こうとする意思を持たない政治的な単位であると、アジアの国々から不信のまなざしで見なされることも当然であると、言わざるをえないだろう。
そして、そうであるなら、今回示された文章に代表されるような中国政府なり共産党なりの一見強硬な「公式的」見解も、(日本のマスコミが評するような)たんに権力の都合によるものというよりも、中国の民衆の意志や感情を何がしか担ったものであることを、少なくともこの場合に限っては、認めざるを得ないであろう。