希望の卵

モジモジさんの記事を読んで知った、村上春樹氏のエルサレム賞授賞式についての報道。

http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html

村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。


 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。


たしかに、「壁と卵」の比喩は、この記事だけを見る限り両義的に読める*1
記事にある「分離壁」(つまりイスラエル側の行動・姿勢)とだけ一義的に結びつける解釈には、やや無理がある気もする。
村上氏は、これまでの作家としての考えや発言、行動の枠内で、今回の発言を行ったという解釈も、おそらく可能だろう。


だがそれ以前に、氏が「授賞式への出席について迷った」と述べたと書かれているのを見て、むしろぼく自身が心を動かされた。
この言葉には、二つの解釈が可能だろう。
一つは、授賞式に出席しないことが、現在の暴力的事態(その主たる責任がどこにあると、村上氏が考えてるのかは問わない)への批判の意思表示になるのではと考え、そういうひとつの積極的な行動を行うかどうか迷った、ということ。
二つ目は、むしろ逆に、今回のように授賞式に出席して何らかのアピールを行うことを躊躇した、ということである(だが彼は、出席して話すことを選んだ。)。


いずれにせよ、現実に対する認識の当否は別として、村上氏は、現実に対して何をなしうるか、どのような態度をとりうるかということを真剣に悩んだ末、誤ったものであるかも知れないが、今回あえてこのような発言を行うという行動を選んだのだ。
このような真剣な迷いがあったのなら、そしてその上での行動と発言であるのなら、そこに真の「解決」に向かう芽が孕まれていないはずはない。
これは、村上氏の今回のスピーチが表面的に意図するものを越えて、そう言えると思うのである。


村上氏に限らず、誰でも、現実を前にして、その行動と非行動に責任を負わないで済ませられる人間は居ない。ただその事実を認めるかどうかであり、それを認めることとは、誤りの可能性があっても、全力で自分の態度や言葉について悩み、その末に行動や発言を選んで、現実のなかに投げていく、ということであろう。
そうした態度を、ぼくたちがとることだけが、現実を変えることの萌芽となるのであり、村上氏の「迷った」という言葉は、村上氏がその地点(出発点)に立つことを選んだということ、そのことで後続するぼくたちを(意図せずして)勇気づけていることになる、と感じられるのである。



村上氏は、(もしかすると)これまでの氏自身の思考の殻のなかで今回の行動とスピーチを行ったのかもしれないが、彼が「今この時」の現実を前にして迷い、さらにその迷いを言明し、そしてひとつの行動を行ったことにより、提示されたこの卵の殻には、すでに(誕生のための)ひびが入っていることが示されたのだと思う。
これが、村上氏という一人の人が、われれわれに、とりわけぼく自身に贈ってくれた、希望の形象だと感じた。

*1:ぼくは、この両義性は、もう少し好意的に解釈してよいものだと思いますが。