靖国のある国

毎日新聞18日朝刊より。

風知草:九段の木陰の世間話=専門編集委員山田孝男http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20080818ddm003070153000c.html

これらの人々は靖国神社に集う遺族・戦友の典型だが、メディアで取り上げられる機会は少ない。報道の関心は首相と閣僚の動向に向かい、カメラは軍装の参拝者、旭日旗(きょくじつき)、楽隊、戦闘服など特異な映像を好む。報道は靖国群像の平均値を伝えているわけではない。


こういう記事を読むと、途方に暮れるような気分になる。
それは、このような語りに、どこか納得させられてしまう部分が、自分の中にもあるからだ。


言うまでもなく、靖国神社は国家による戦争遂行の装置として存在してきた。
その機能の結果として、おびただしい人命がアジアにおいて失われ、また日本の兵士や民間人、連合国の将兵の命も失われた。
その巨大な破壊と暴力を考えるなら、ここで言う「靖国群像の平均値」や「遺族の真情」というものが、靖国の存続を支持する理由となるようなものではありえず、むしろその暴力性の証明であることは明らかだろう。
この人たちを「遺族」にし、加害国の国民・家族の側に位置づけたのは、他ならぬ靖国であり、それを利用したこの国の国家のあり方なのだから。


にも関わらず、「靖国を訪れる遺族の真情」(上記記事最終部)が、そういう国家の歴史とあり方に直面しないための、靖国神社の存在を容認するような国のあり方を肯定しつづけるための根拠のように持ち出される。
そして、ぼく自身、そこに描かれるような年老いた日本の「遺族」たちの「真情」に配慮したいという気持ちが起きる。


だがそのとき、言うまでもなく、侵略され、あるいは戦火に巻き込まれ、あるいはまた支配されて苦しんだ側の人々の日常は、配慮されるべきものとして考えられることはない。
その人たちは、「われわれ」ではないから、われわれの日常には属さないのだから、その人たちの日常の破壊は、あるいは生命の喪失さえ、顧慮する必要のないもののように、ぼく自身の感覚のなかで捉えられている。
まるで、たとえば、公園から撤去される野宿者のテントやバラックのように。


「われわれ」に属するものとして、その「真情」に配慮するべき人たちだと考えられた存在と、そこに属さないとされた人たちの存在との、この命の重さの隔たりに、まず自分ながら驚く。
だが無論、この「われわれ」とされる人々の、命の重さも虚構にしかすぎないだろう。それは、国家のあり方を、根本的には省みず、維持しつづけるための、虚構の「重さ」であり、「真情」でしかないであろう。
この記事を書いた記者も、またそれに共感するぼく自身も、結局は、自分の存在が揺るがされるような反省や転換を回避したいから、この遺族たちへの共感や配慮を口にしているだけだろう。
そして、そういう有権者の思惑に支えられて、この国の暴力的なあり方は存続し、むしろその目的のために、今後も靖国とその「遺族」たちは利用され続けるのだろう。
この国では、「遺族」や「老人」は、そのようにしか扱われない。この人たちの、生や命の重さが尊重されることなど、過去にも現在にも、一度もなかったのだ。


それが恐らく、この国に靖国神社が存在し続けているということの、意味である。