誰でもよかった

引き続き、八王子の事件について。


このような事件では今回に限らず、加害者の現状とか生い立ちがどうだったかというようなことが、社会の状況と結び付けられたりして論じられることが多いが、ぼくはむしろ、今回殺された人が若い女性のアルバイト店員だったということを、よく考えるべきではないかと思う。
「アルバイト」といっても、この方の場合は大学生で、就職が内定していたということだが、重要なのは犯人にとって、そのときどう映ったか、ということである。


犯人はたしかに(この事件に限らず)、「殺すのは誰でもよかった」というふうに言っている。だが、「誰でもよかった」ということはつまり、出来るだけ殺しやすい対象、抵抗されることが少なそうな相手、無防備な人を狙う、ということであろう。
少なくとも、そういう選択の下に行動する可能性が高い、ということになる。
とすると、男性よりは女性、大人よりは子ども、社会や権力の中心部にいると見える人よりは周辺部に居ると見なされる人、そういう人に(無差別的な)暴力の向けられる可能性が高い、ということだ。


この犯人の目には、その社会のなかの弱い、容易に傷つけられそうな箇所が、自分の眼前に露出しているように映っていたかもしれない。
そのような映像が、理由はなんだかしらないが暴力への欲求に突き動かされた人間の前に示されてしまうような社会、そこにわれわれは生きている、ということではないか。
それは、そうした弱い部分に向かって攻撃をかけるということに、抑止が働かないような社会、そこを攻撃しても構わないのだという暗黙のメッセージが機能しているような社会であろう。
こうした無差別衝動殺人は、もちろん怖いが、もっとも怖いのは、弱者が容易にそうした暴力のターゲットになるような社会に、われわれが生きているということの方である。


この社会が、いつから始まったのかはしらない。いつか終わることがあるのかもしらない。だが今現在その存在を支えているのは、われわれ自身であることは間違いない。