自由をわれらに

きのうたまたま、「天声人語」のこの文章を見つけて読んだときには、正直あまりのひどさにショックを受け、何を言えばいいのかも分からなかった。
今日ほかのところを見たら、この記事を非難してる人があったので、それに勇気付けられて自分も書いておく。

http://www.asahi.com/paper/column20101019.html

 欧州あたりで「嫌米」のデモが荒れると、しばしばマクドナルドの店舗が襲われる。米国のグローバル支配の象徴というのだろうが、店員や食材の多くは「国産」だ。本籍に執着の薄い国際ブランドが、右代表としてやられるのは皮肉である▼中国内陸部の地方都市で、反日を叫ぶ群衆が暴れた。「坊主憎けりゃ」で、パナソニック電器店トヨタ車も壊された。政府間では落ち着くかに見えた日中の対立。外交から街頭へとなれば厄介だ▼騒いだのは愛国教育を受けた世代という。就職難など、色んな格差への不満が、格好の標的を得て爆発したとされる。「日」の字がつけば何でも攻撃対象となるように、理由は尖閣でも靖国でもいいらしい▼彼らの横断幕に〈琉球を回収し、沖縄を解放せよ〉とあった。幸い、中国に抗議する東京の日の丸行進は整然としていたが、売り言葉に買い言葉の愚は戒めたい。ナショナリズムの悪循環を防ぐには、大人を自覚する側が冷静を保つことだ▼中国にも冷めた目はある。反日デモの呼びかけに、ある若手人気作家は「内政問題でデモもできない民族が、外国に抗議しても意味はない」と喝破した。怒りをぶつける相手が違うと。それが体制に向かっては困るから、当局も規制の加減が難しい▼中国の富裕層は、東京や軽井沢で不動産の品定めに忙しい。本当は、反日を教え込まれた若者にこそ、日本に来てほしい。半日もいれば、表現の自由の何たるかを知るだろう。新聞も雑誌も政権批判であふれている。それも「愛国」の流儀である。

これは、朝日新聞が言うような「表現の自由」というものを突き詰めていけば、どういうところに行き着くかが、よく示されてる記事だ。
戦後の日本では、ある時期まで、つまり冷戦期にはということだが、「自由」という言葉は、反共・軍備増強のためのスローガンとして使われた。その後、冷戦が終わったとされる今日では、「自由」とは、(先の意味をも残しつつ)端的に「新自由主義」という語によって示されるものを内実にする言葉となった。つまり、資本や、それに結びついた権力による自由の独占を意味する言葉となったのである。
そして、その二つ(反共と新自由主義)以外の意味合いにおける「自由」、つまり私たち自身にとっての本当の自由と呼べるものを、自前で獲得するということを、私たちは出来ないままに今日に至っている。


私たち自身にとっての本当の「自由」とは何か。
それは、権力に対する自由、抑圧や支配をはらいのけ、あるいは脱する瞬間にだけ、その努力の中でだけ、見出されるものだ。
『奴隷にとっての自由とは、唯一、自ら鎖を解き放つ自由のことだ』と、サルトルは言っている(『存在と無』)。私は、その考えを支持する。
私たちが、「人権」の名のもとに擁護せねばならないのは、いつもただ、そうした「自由」であり、すなわち弱者が、虐げられた者が生きるためにあげる声のことなのだ。
制度や権力に容認されて垂れ流され、権力の思惑のままに弱者を傷つけて恥じないような言論は、隷従であって、「自由」の名には値しない。
この「天声人語」の文章が語っている「自由」とは(そしてこの文章そのものが)、まさしくそういった類の「死せる自由」であり、エセ言論だ。


いや、このような言論は、逆に全ての人の「自由」を抑圧するものであり、私たちの思考や感情を操作して、自分たちの振るっている暴力と、自分たちが被っている暴力と抑圧に、私たちが気づくことを妨げることを目的として垂れ流されているものだと思う。
こうして実際には「自由」を抑圧しながら、日本のマスメディアは、「自由の擁護」を唱え、「自由」という理念とその獲得のために(各国で)戦っている人々を利用して、自分たちの権益を守ろうとしているのである。
つまり、権力と富を持つ者たちの支配に対して、私たちが反対の声を上げ、それを通して他者と真に連帯するのを、阻むことによって。

幸い、中国に抗議する東京の日の丸行進は整然としていたが、売り言葉に買い言葉の愚は戒めたい。ナショナリズムの悪循環を防ぐには、大人を自覚する側が冷静を保つことだ


この記事の全体に、中国に対する社会の蔑視的な感情におもねり、あるいはそれを定着させようとする意志が感じられる。それはたぶん、たんなる偏見よりずっと悪いものである。
だが、ここではそのことには触れない。
上に引いたのは、まるで日本における「言論の自由」の代表者のような顔をし、しばしば右翼のテロや脅迫の標的になって、社員のなかにはその暴力によって命を落とす者まで出し、その悲惨な事実さえ自分たちの「自由の守り手」としての権威付けに利用してきた成れの果てとして、この新聞社が書いた右翼賛美の文章である。
これが、「どこに行き着くか」と書いた意味だ。
東京の真ん中を、侵略戦争の象徴である「日の丸」を掲げて中国大使館へと行進するデモ集団は、中国当局から「右翼のデモ」と呼ばれても仕方のないものだし、事実「右翼のデモ」以外ではないからこそ、朝日などほとんどの大メディアは、これを報道しなかったのではないのか?
「幸い」と書くということは、「整然」とした意思表示なら、日の丸を街中でかかげてこんなデモを行うことの暴力性が、いくらかは薄まるとでも、朝日のこの筆者は考えているのか?
自分たちの側の暴力性にはまるで気づかず、容認し、相手方の「暴力」や理性の欠如だけを言い立てる。これでは、差別や偏見による人々の間の分断を助長しているだけだ(それが狙いだと言われても仕方がない。)。


また、そのように右翼による排外的な行動を容認し、事実上支持する姿勢は、「デモを行う心情は理解できる」と言った中国の当局者の発想と、どう違うのだ?
それとも、「こちらの大衆や不満分子は、中国の大衆や不満分子よりも、ずっと従順で操作しやすい」ということを誇りたいのか。
管理の巧みさを誇り、管理されやすくあることを人々にすすめる、これは悪しき官僚の発想以外ではない。
本当の「自由」は、暴力とは無縁だろうが、こんな支配のための言説、エセ言論とは、いっそう縁遠いものだ。

本当は、反日を教え込まれた若者にこそ、日本に来てほしい。半日もいれば、表現の自由の何たるかを知るだろう。新聞も雑誌も政権批判であふれている。それも「愛国」の流儀である。


なるほど日本に来れば、中国の若者たちは、こんな差別的・抑圧的な言論を垂れ流す、御用メディア資本が行使し守護する「言論の自由」というものを知るだろう。
そして、「自由」とは力の強い者が思い通りに振舞えることと同義であるという、この社会に蔓延する帝国主義新自由主義の倒錯的な教義を、それぞれに実感し、あるいは体得して帰っていくことになるだろう。


私たちに欠けているのは、自前の「自由」を求める強い意志だ。
おそらくそれが、私たちが中国の若者たちの怒りや行動から(反日にせよ、反体制にせよ)学ぶべきものである。