何のために向き合うか

このところ、「加害の自覚」ということをめぐって、いくつか書いたつもりなのだが、今朝(2日)たまたま新聞で以下の記事を読んだ。


消せない:児童ポルノと性犯罪/1 広がるネット流通http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080602ddm041040135000c.html


そのなかで、次の一節がとくに印象的だった。

「違法と知ってたけど軽い気持ちでやっちゃって。拘置所もめったに入れる所じゃないし、いい社会勉強だった」。有罪判決を受け執行猶予中の男は5月、毎日新聞の取材に開き直るように話した。


自分が会ったわけではないし、会ったとしても内面までは分からないのでなんとも言えないが、たしかに開き直っているような印象を受ける発言だ。
こういう言葉を読むと、「この人は、自分が犯した罪(加害)に向き合っていない」という風に思う。法的には判決を受け、「法律を犯した」という罪については、法的な処罰は受けている。
だが、法を犯す、犯さないとは別に、「被害者」に対する加害ということがある。この記事で言うと、こうした映像を流通させることによって、苦しみ続ける人たちが現実にいる、ということがあるわけである。
その意味での「罪」(加害)に、自ら向き合うかどうか、ということである。


自分自身のことを考えると、そうした加害行為というものを、もちろん多くしてきたと思う。いま、はっきり思い浮かべられるものだけでも、少ない数ではない。
それらの罪(加害)に自分が向き合っているかというと、その多くについて、向き合ってはいない。というか、簡単に向き合えるような罪なら、もともとそう重い罪ではないのかもしれない。
だから、上の記事に出てくる人の言葉は、まったく自分の言葉のようにも感じられるのである。
謝罪や賠償ということは、もちろん必要であれば、しなくてはならない。だが、それらを全てしたとしても、「罪と向き合う」(反省する)ということは、まったく別の問題である。


そもそも「罪(加害)と向き合う」ことは、なぜ必要なのか。
まず、そのことが再犯の防止といったことのために必要である可能性がある。たしかに、このことは大きい。それは、社会的な要請とも言えるが、被害者自身が、何よりそれを望んでいるとされる場合が、多くあるからである。
だが、他にも考えられる。
それは、先日も書いたように、向き合わないことは、その当人(私)自身の生を損ねることになる、ということである。とりあえず、このことは言える。
上の記事のような発言を読むとき、また自分自身を振り返っても、自分が犯した加害と向き合わないままの生は、きっと不幸であろう、少なくとも歪んでいるということを、思わざるをえない。
だが、それなら、ここでは「被害者」の方はどうなってるのだろうか。「私」(加害者)の生が救われるならば、それでよいのか。


しかし、こういうことがある。
加害者が「罪と向き合う」こと、向き合い続けることを望む被害者もいるだろう。だが、そんなことは望まない、むしろ出来るなら、お前(加害者)が存在しなくなることが一番よい、そう考える被害者も、きっといるだろう。
そのように考えざるをえないことが、加害の重大な一側面であるかもしれないが、それは誰にも決めつけられないことである。つまり、そのように考える権利が被害者にはある、というべきである。
だから、加害者が「罪と向き合う」ことは、社会的な側面を別とすれば、つまり加害者と被害者との関係に限って言えば、ひとり加害者にのみ関わる事柄であると、ひとまず考えるべきだろう。
その意味は、加害者にはそれをする責務があるが、被害者に対して(被害者のために)その責務を負っているのだと言う権利は、加害者にはない、ということである。
以上は、いわば「関係」のレベルについての話である。


そのうえで、加害者が罪と向き合いつつある場合に、その加害者との関係を、というか加害者の存在そのものを、どのような意味でか、被害者が受容するかどうかは、被害者にしか決められない(分からない)事柄である。
だが加害者は、少なくとも、「受容するかどうか」を被害者が決めるための条件を、自らが「罪と向き合う」ことによって整える責務があるはずだ。
要するに、ここで問題になっているのは、「関係」以前の、「存在の受容(もしくは修復)」である。


さて、そこでぼくは、自分が犯してきた「加害」に向き合っていかねばならない。
それは、今の自分には、あまりにも苦しく、重いと感じられる。
自分の罪に「向き合う」ということは、きっとこれからもなかなか十分に出来ないだろう。
だがせめて、「向き合えない自分」には、ずっと向き合い続けていこうと思っている。